本書の主旨は、次の3点だ。
- 悪意を検証する
- 悪意を理解する
- 悪意をコントロールする
本書では、悪意を次の観点から読み解こうとする。
- コストと利益
- 進化的要因→支配と反支配
- 社会的要因→相対的地位
- 遺伝的要因→繁殖(近似する遺伝子の継承)
- 自己決定性→自由
- カオス→すべてを一からやり直す
- 宗教的要因
- 薬学的要因
本書での悪意
まず本書で言うところの「悪意」がどのようなものかを、はっきりさせておく必要がある。
最後通牒ゲームと呼ばれる心理実験がある。このゲームでは、二人のプレイヤーが与えられた資源を分け合う。例えば、与えられた$10について、プレイヤーAが配分を決め、プレイヤーBがその受け入れ可否を判断する。Aは平等にも不平等にも割合をコントロールできるが、Bが提案を受け入れれば、割合はどうあれAB両得となる。受入れを拒否すれば、AもBも資源を受け取ることができず、AB両損となる。
つまり自分に対して多めに配分することはできるものの、その利益獲得は相手の判断に委ねられている。不平等な配分をすれば、拒否される確率は高まるだろう。
紛らわしいのは、本書で言うところの悪意とは、Aが不平等な提案をすることではない。Bが拒否することが、本書で言うところの悪意の行為に該当する。この点を勘違いすると、本書の読み解きに困難をきたすどころか、スタート地点から間違っていることになる。
この悪意は報復や仕返しと読み替えることもできるのだが、それだけを指すとは限らない。本書での論考から、相手に落ち度も問題もないのに発動する、ただ自分が相手よりも相対的に優位に立つための行為も含んでいる。さらには相手に害を及ぼす行為でありながら、自分にも害が及ぶ行為さえも包含している。
悪意は、協力、利他、善を促すためのエンジンとして機能しているのではない。確かに、悪意が進化することによって、協力が促進されたり、他者に利用されるのを防ぐような一面を備えはしたのだが、それはある意味、後付けの副作用のようなものなのだ。
悪意とは、端的には自らコストを負担して、他者に害を与える意欲なのだという結論にたどり着く。軽く絶望を覚える結論だ。
悪意を招きやすい環境、現実社会との関連
さらに悪意を招きやすくなる環境として、不公平、不平等、格差、自力では覆しようのない固定化された現実が挙げられる。これが現在の社会状況に非常によく当てはまるのだ。一般的な事柄から、数々の事件の読み解きに整合するような示唆を与えてくれる。
例えば、安倍元首相銃撃事件で山上容疑者を擁護する声だ。山上容疑者の本意はどうあれ、擁護する声の主たちから見れば、山上容疑者は悪意の行為に伴うコストを負担してくれた人物と解釈できるだろう。
卑近なところではインターネット環境、特にTwitter、Yahoo掲示板、はてなブックマーク、発言小町などなど、怨嗟の声、あるいは刺々しく言外の含みがある、攻撃的な発言の応酬が飛び交う現場だ。あるものは相対的地位を確保するための発言だろうし、あるものはコスト負担が「リーズナブル」な悪意の攻撃とみなせるだろう。
時に、経済的格差について、努力に応じて格差が開くのは当然、という意見がある。しかしこれは悪意の観点から看過できない。もしそれが運ではなく、真に実力に基づいた結果の格差であったとすれば、やはりそれは悪意を誘発するのだ。それは才能、実力は運よりも大きな脅威だからだ。
運は常に有効に機能するとは限らず、運による格差が固定され続けるとも限らない。しかし実力差に基づいた格差は、揺るぎないものとなる可能性が高い。その結果、
運ではなく、実力によって優位に立つと、他の人々はさらに脅威を覚え、あなたに悪意を抱きやすくなる。
薬学的要因
ある一章の、ほんの一部分で語られる薬学的要因は、ただ事実に触れただけの内容に過ぎないのだが、出色な示唆に感じた。セロトニンが増えると悪意が減り、減れば悪意が増える傾向がある。セロトニンが減少すると、脳の報酬系が反応しやすくなり、他者に害を与える喜びが向上する。
これが何に関連するかと言えば、昨今の薬剤服用事情、例えば抗うつ剤だ。それは選択的セロトニン再取り込み薬であり、服用者のセロトニン値を増やす。とはいえ、それほど深刻ではない、軽度の患者については、治療効果はないのに副作用だけは機能する。つまり、不必要に悪意が減少するのだ。
一方、経口避妊薬、特にミニピルと呼ばれる薬品にはセロトニンを減少させる効果がある。これは不必要に悪意を助長することになる。例えば不公平に対する怒りを増幅し、不公平に対する行動を起こしやすくする。
本書ではこの事実に触れているだけだが、弱くなった男性、強くなった女性、いわゆるフェミニズムとミサンドリーとの関連を連想した。
著者の「悪意」、あるいは無力なコントロール
本書の主旨の一つは、「悪意をコントロールする」ことだった。悪意は消失できるものではなく、回避できるものでもないため、「コントロール」する必要があるのだ。しかし、この内容の適当さ、軽薄さが絶望的な読後感に拍車をかける。ほかの主旨である「悪意を検証する」「悪意を理解する」の内容は、よくぞ言語化してくれた、というほど内容は充実していた。それだけに落差が激しいのだ。
あたかも「ここで力尽きた」、「仕事を適当に終わらせようとしてはいないか」と、率直に言えば著者の「悪意」を感じる箇所でもある。
まず著者は「美徳シグナリング」を提唱する。他者の評価を下げ、相対的に自分の地位を高める美徳クライミングではなく、自分の地位を上げ、自分の地位を高める行為を指している。
他者に意識を向けるのではなく、自分自身に向けることには賛成だ。しかし、これでは自分自身の内なる悪意はコントロールできるかもしれないが、他者の悪意はどうしようもない。
さらには仏教でいう四無量心を説く。全く説得力がないのだ。
非無量心 | 哀れみ |
喜無量心 | 他者の幸福を喜ぶ |
捨無量心 | 他者の運命に対して平静でいる |
宇無量心 | 私心のない優しさ |
とにかく、まじめに読むほど救いのない内容だった。小説『自殺自由法』*1を読んで以来、読後に、軽い抑うつ的な感覚を覚えた。