原題は『Class: A Guide Through the American Status System』。アメリカでは1983年、日本では1987年に出版された書籍だ。
アメリカも日本も階級社会ではないのだが、社会的な階級は歴然と存在している。副題に
「平等社会」アメリカのタブー
とある通り、階級についての話題はアメリカではタブーとされている。政治や宗教のように気まずい話題であり、割けるのがマナー的なニュアンスでの”タブー”なのだが、日本ではどうだろうか。
日本においては、特に庶民から見たトップクラスの人たちを揶揄しながらも、社会的にも物質的にも自分たちより上位に存在していると認めている表現として、「上級国民」というスラングがある。これは自分たちよりも上位の存在を認めるだけでなく、暗に社会階級が存在していることを示唆している表現だと解釈できる。
そのような社会階級についての論考が本書の内容だ。一つ注意が必要なのは、著されている事柄は統計的、科学的な手法による裏付けはなく、著者自身が次のように語っている様に、あくまでも論考であることだ。
いわゆる「科学的」な方法よりも、自分の勘と感覚に多くを頼った。
とはいえ、現在から40年を経た80年代の状況を背景にしながら、本質的な事柄は現在にも継承されており、現在においても十分通じる内容だったのが印象的だった。特に中流階級の振舞いと、いわゆるネット民と呼ばれる、Twitter、Instagramなどで影響力を行使したり、承認欲求を満たそうとするような人達との類似性に置いてだ。
本書から得た情報に基づいて現代社会を顧みれば、特にSNSに見られる上昇志向、より上級に見せようとする振舞いは、まさに本書で触れられている事柄と合致していることが分かる。そして、これがアッパーミドルから中流クラスにかけて見られる傾向であることも、本書の説明通りなのが面白いところだった。
最上流階級
一般的な階級分類では、上流、中流、下流という三分類が一般的だが、本書では次のように分類されている。
上流 | 中流 | 下層 |
---|---|---|
最上流 上流 上層中流 |
中流 上層労働者 中層労働者 下層労働者 |
貧困層 最下層 |
日本で言うところの上流とは、ここでは上層中流から上層労働者の何処かに該当する。それより上の層との大きな違いとは、次のような事柄だ。そしてこれが彼らを区別する決定的なポイントであると同時に、努力すれば上の階級に上がれる、ということが「神話」であることを決定づけているポイントでもある。
最上流 | 身を隠す、人目を避ける 自ら稼がない→遺産 |
上流 上層中流 |
自ら誇示する 自ら稼ぐ |
いわゆる最上流階級とは、「貴族」的な人たちを指しているのだ。そして、世間一般の憧れ的なライフスタイルを実践している、世間一般から見た「上流」とは、上層中流を指しており、同時にそれが「上流」として目指している階級でもある。つまり、成功=自ら稼いだ結果、である以上、理屈では最上流に辿り着くことはできないし、何より彼らの社会的習慣に馴染めないというハードルもある。
というのも、最上流層の特徴というのは、
働く必要がない | 利口でなくともよい→何かのプロと見なされることは家の面目を潰す |
懐古主義 | 歴史がある=代々長く続く家系 財産が昔から受け継がれている |
非機能的 | 年代物を継続利用する 自分で使わない、使用人が使えればよいから、おんぼろでも構わない |
このような特徴は、土地、家、家具、素材等々から料理の味付けに至るまで、あらゆるものに序列を付ける。そのこと如くが、世間一般で言うところの上流=上層中流の振舞いとは異なっているのだ。
彼らは生まれついての最上流であり、お金があり、他人の非難を気にする必要もない。だから機能的である必要はなく、むしろ不経済=非実利的な無駄や遊びに価値を見出している。そして、それを支える手間、不便は使用人の仕事なので、全く気にしない。
働かなくても良いから、何一つ自分で考えようとはせず、考えることにすら関心を持たない。つまり、汝が知るべし=「私が考えるのではなく、お前が考えろ」ということだ。だから利口である必要もないし、何も悩むことがない。
このような調子だから、階級についての意識、執着が強いのは最上流よりも下の人々なのだ。
階級への意識、ネット民の振舞い
いうなれば最上流とは、生まれつき、不動の階層であり、何も気にかける必要がない。階層を上昇するか、下降するかが沽券に係わる階層こそ、まさしく階級を強く意識せざるを得ない階層であり、その階層こそがまさに上層中流から中流の階層なのだ。
ただし下層は違う。彼らは将来の状況がよくなる見込みがないことを知っているからだ。
中流階級は、より上位の階層であるとみなされるために、他人からの評価に気を遣わなければならない。つまり、
- 他人の評価を恐れる→他人へ不快感を与えない
- 批判を恐れる→何もかもきちんとする
- 軽んじられることの恐れ→自らの重要性
そして、これらを満たす手段として、「物を買うというような機械的な行為」によって、自分たちの不足を補おうとする。例えば、ブランド、そのイメージやメッセージと自分とを、次のような具合に結びつけるのだ。
自分の不足を補う | ブランド品を所有する、消費する |
アピール、意思表示する | 表現されているものに関心を示す、関りを示す |
私の観点では、これがまさにネット民の振舞い、「ブランディング」と大いに合致するのだ。FacebookやInstagram、TikTokなどを介して自身の生活、状況、それを取り巻くアイテムを紹介する演出から、TwitterでのRTを多用した情報発信からお気持ち表明まで、まさにこの中流階級の振舞いに当てはまっている。
そしてこれは、他人からの評価を意識しすぎる、自身の内面の弱さにも通じているのだ。単純に自身の好み、必要に応じた選択の結果であればともかく、他人の評価を意識しすぎるあまり、選択の根拠に気取り、欺瞞、偽りが入り込むためだ。
背景の違いはあれ、自身の選択について他人がどのように考えようが気にしない階層の人たちには縁のない振舞いである、というのが論考の主張だが、私の観点からすると、階層に関わらず、他人の評価を意識する人、その影響が強い人ならではの振舞いに見える。
下流とオタク文化、そしてガチャ
自分自身の不足を補うために、中流はブランドや表現を用いるのは、自分をより上位に見せかけるためだ。上位に食い込めないのが現実であり、上位に見せかける必要もない下流は、スポーツ観戦を通じて、その代理成功を味わい、自分自身の価値を再認識する。それは自分たちの階級では無縁の振舞いを体験できるからだ。
- 意思決定
- 管理、記録
- 意見の形成、披瀝
現代日本のネット民にとって、そのスポーツ観戦とはオタク文化(アイドル、アニメ、ゲーム、カードなどなど)に通じているように、私には見える。成功体験、それらの振舞いに通じるきっかけを与えてくれるからだ。
そして、「推し」をサポートするための物販やガチャが、それらの欲求実現すらも換金してしまう貧困ビジネスとして形成されているように見える。
Xカテゴリー
本書では、どの階級にも属さない人々を、「X」と分類している。これは階級ではなくカテゴリーだ。本書の主張の一つは、
- 「階級のない社会」というのは建前であり、階級は存在する。
- 努力すれば上の階級に上がれるのは神話であり、事実上、固定されている。
ということだった。その階級を脱する目的地がXなのだという。
最上流階級が金のある貴族だとすれば、Xは金のない貴族だ。富は持たないが、大きな自由と、ある程度の力を有している。つまり、
- 誰からも管理されていない
- 自発的な仕事をする
- 自立した精神を持つ
- 何事にもとらわれない
自分の主は自分自身である、といったフリーランスのような人々に当てはまるのだが、果たしてこのような人たちは実在するものだろうか。特に「金のない」という部分の解釈がポイントだ。
「金のない」フリーランスとして個人的に思い当たるのは、戦場カメラマンのような人達だ。とても階級を脱して目指すべき社会的ポジションとは思えない。往々にして、Xで思いつくような人達は「金がある」のだ。厳密には、(貴族よりは)「金のない」フリーランス、とでも定義すべきだろう。
おそらく80年代では、この視点は慧眼だったと思うのだ。実際、90年代のインターネット黎明期から2010年代手前までは、まだ階級間の経済格差はマイルドだった。だから貴族よりは「金のない」フリーランスは成立しえた。
現在のフリーランスとは、ほんの一握りの成功者を除いては、ギグ・エコノミーに組み込まれた「ワーカー」であり、それも食料配達人から、クラウドソーシングで極限まで値切られる業務委託まで、事実上の下層労働者も同然なのだ。
階級とは無関係とは言え、自分自身が主であるべきフリーランスでさえも、このような状況なのだ。もはや本来あるべき「X」ですら階級に飲み込まれてしまったのが現代社会だと、私には見えた。
余談:味付けの序列
例えばフランス料理のような「高級」とされる料理では、素材の味わいが重視される。ソースにしても、調味料ではなく、肝や血、あるいはペーストにした野菜と言った素材から作られる。
調理に投じられる技巧は置いて、「ぼんやり」とした素材の風味が上品とされ、砂糖や香辛料のような「明瞭」な風味は、下品なものとされている。指標的に表現するならば
上品:mild ⇔ strong, spicy:下品
何故だか分かるだろうか。
本書によると、香辛料を利かせた食品とは非アングロサクソンの料理であり、それはつまりアメリカにおいては移民の料理なのだ。非アングロサクソン=ラテン、ヒスパニック、中華系移民の料理といえば、アメリカでポピュラーなのはピザ、タコスのようなジャンク・フードやテイクアウトのファーストフードだ。
アメリカナイズされていない、移民の母国料理であったとしても、格下と見なされてしまうのだ。
本書にはこのような、社会階級以外の序列、例えば言葉遣いや文節数、木材、スーツや生地、模様、スポーツ、地域などについても言及されており、雑学本としても楽しめる。