新書『ケーキの切れない非行少年たち』は、1970年代以前であれば軽度知的障害に分類される程、認知機能の低い人達、いわゆる境界知能と呼ばれる人たちの存在を知らしめた。認知機能が低いがゆえに、適切に学習できず、思い付きで行動してしまう人たちだ。周囲からも支援されず、理解もされないがために非行に至り、少年鑑別所へ送られるのだが、認知機能の低さゆえに、反省すらできない。つまり認知機能の低さは障害レベルであり、反省に至るほどの自己洞察、内省すらできない、反省以前の問題なのだ。
著者は本書の目的を次のように語る。
加害少年への怒りを彼らへの同情に変える
少年非行による被害者を減らす
犯罪者を納税者に変えて社会を豊かにする
ただ、彼らの存在を社会に知らしめることだけが、著者の意図ではない。著者が本当に伝えたかったことを『どうしても頑張れない人たち』で語るために、『ケーキの切れない~』で世間の評価を獲得する必要があったのだ。それは『どうしても~』の”おわりに”で次のように語られている。
必要な内容だから理解してみようと思うのではなく、人は世間である種の評価がなされてから、初めて理解してみようと思うようになるのだ
いうなれば、この2冊は前編、後編のような構成だ。幸いなことに、偶然にも2冊を続けて読むことができため、著者の真意を理解することができた。著者は、そのような人たちが社会に存在していること、その置かれている状況を前提として、次のことを伝えようとしている。
・そのような人たちを支援すること
・その支援者を支援すること
・最低限、何をするべきなのか
ケーキの切れない非行少年たち
先に触れたように、本書は『どうしても~』に繋げるための”つかみ”の位置付けだ。境界知能と呼ばれる認知機能の低い人たちの境遇を知らしめるだけが目的ではない。特に3つの目的のうちの2つ、
- 少年非行による被害者を減らす
- 犯罪者を納税者に変えて社会を豊かにする
についてのソリューションが語られないのだ。著者の考えるソリューションとは支援だ。それも、当事者が困っているときには、いつでも助けになる、決して見捨てることのない伴走者、安心基盤という、関係者でもなければ気の重くなるような立場で支援することだ。
『どうしても頑張れない人たち』で、それが語られる。
どうしても頑張れない人たち
境界知能のように認知機能の弱い人たちは、頑張ることが難しい。今作では、そのような人々が頑張ることのできない背景と、そのような人々を支援すること、さらにその支援者を支援するための考え方を紹介している。
印象的だったのは、支援したくない人たちだからこそ、支援しなければならない、という理屈だ。認知機能が弱く、頑張りたくても頑張ることができない、頑張っていても怠けているように見える人たちだ。加えて、手助けがお節介と解釈されることもあれば、自ら助けを求めることもしない人たちなのだ。
ただ著者の考えの背後にある前提は、冷徹であり現実的でもある。それは本書の終盤で語られる、次のような身も蓋もない事実に基づいている。
この社会は”他者からの評価が全て”
人から良く思われないとますます生きにくくなってしまう
そのためには他者から良い評価を得る必要がある。その前提として、まず他者から好感を持ってもらえる存在にならなければならない。だからまずは対人マナーの支援から始まるのだ。
- 挨拶する
- 話しかける
- 親切にする
- 相手のために何かする
- 自分の評価基準を、他社の評価基準に合わせる
このようにして他者からの評価を自己評価の向上に繋げ、その承認が自信に繋がるサイクルを生じさせるのだ。健常者であればともかく、そうではないのだから気の遠くなりそうな話だ。
前作『ケーキの切れない~』はコミック化、映像化されるほどの話題作であるにも関わらず、今作は話題にもならないどころか、黙殺されているも同然に見える。この支援の面倒さを考えれば、そうなる事情も察せられよう。
余談ー「頑張ったら支援する」「頑張らなくていい」は禁句
支援において「頑張ったら支援する」「頑張らなくていい」的な物言いは禁句だ。
前者には、次の問題がある。そもそも「頑張らない」と「頑張れない」は当人以外には事実を判断できないことだ。その上で、頑張らなければ、見捨てられるのか?ということにもなる。条件付きの支援は好ましくないのだ。
後者は、すでに限界まで頑張っている人たちへの「労い」としては有効かもしれないが、ここでの当事者たちには適切ではない。字義通りに解釈すれば、サボりのお墨付きとして解釈することもできるし、何より「頑張らない」ことは問題の先送りであり、特に支援者の口から発せられたなら、その発言は無責任でもある。
端的には”何も言わないこと”も支援の一部となり得るのだ。