吉田建は有名プロデューサー、ベーシストで、テレビ番組『三宅裕司のいかすバンド天国』で辛口の審査員を務めたことで、一般にも名が知られるようになった有名人なのだという。しかし、私はこの番組を観たことがなく、同氏のことも一切知らず、ゲーム・クリエイターとしての斎藤由多加*1の名前がきっかけで、本書を手に取ったのだった。
この書籍は対談本なのだが、ゲーム・クリエイターならではの仕掛けが施されている。後述する”あとがき”を深読みするならば、アドリブの様な臨機応変さが対談だけでなく、その文字起こしにも反映された結果としての、対談を装ったフィクションとも解釈できる。フィクションだとすれば、対談に挿入する話題も、うっかりと真に受けるわけにはいかない。
さらには、この対談集自体が、とある作品の構成をなぞったパロディなのかもしれない、という仕掛けにも気づかされる。
新幹線で新大阪に到着する頃には読み終えてしまう程度の軽い対談本なのだが、最後まで楽しませてくれる。
対談
次に挙げる3つの話題を中心に、対談は構成されている。
- 音楽、特にロック
- ギター神話:「古いものは良い」的な迷信
- 吉田建
私は吉田建には全く馴染みがなく、関心を引かれることもないため、専らの関心は1、2に集中するのだった。
対談の内容を信じるならば、ロックについての「解体新書」的な、情報純度の高い内容の書籍を出版するのが当初の目的であったようだ。それがロックを掘り下げるうちに、対談の主題がロックから吉田建氏自身に映っていき、最後は同氏の提案によって対談本の体裁を得た、という成行だ。
吉田建は「自由でフレキシブルな対応力」を志向している。それは音楽で言うところのアドリブではなく、譜面通りの演奏から逸脱することはないものの、奏者なりのクセ、解釈に通じるズレやアレンジのある表現を指している。その場に応じた臨機応変な表現が聴衆へ伝達され、その場での感動が増幅されることを期待しているのだ。これを同氏は、次のように表現している。
予想は裏切っても、期待は裏切らない
そして、この期待されたズレ、アレンジに通じる表現を自らが期待しておきながら、それが自分自身では実践できていないことに気付き、言葉にするところが、タイトルの「弁明」に通じている。
しかし、そう文字通りには解釈できない、あるいは他に解釈の余地があるのが、本書の仕掛けだ。”あとがき”で明かされるように、そのような「自由でフレキシブルな対応」が本書には反映されているのだ。
ギター神話
「ギター神話」というのは、いわゆるビンテージ・ギターは良い音がする、というような、明確な根拠がないものの、漠然と信じられ続けている事柄を指している。これは本題ではないのだが、本書の主題を支える話題の一つだ。そして本書なりの見解に到達するのが、私が本書を読み進める動機にも通じていた。
どうやら本書での見解は、偶然の産物、ということだ。製品としての絶対数が少なければ、希少性が上がる。その該当モデルの個体差が激しければ、その特徴が強烈な個性、癖や味わいとして認知されることがある。そのような状況が成立すると、その製品の需給がニッチ市場化する。こうして「神話」が生まれる土壌ができるのだ。
その見解に触れ、謎が解けてスッキリした気分で"あとがき”に到達し、そうやすやすと真に受けることはできないことに気付かされるのだ。これが本書の仕掛けだ。
"あとがき"ー沢木耕太郎『流星ひとつ』のパロディ?
吉田建から話を引き出すのが、この対談における、斎藤由多加の役割だ。発端となる目的は異なれ、ロック探求から吉田建に話題の中心が移るにつれ、同氏に話をさせることよりも、先の「弁明」を引き出すガイドへと、斎藤の役割も変化していく。
その「弁明」に至った後、吉田は斎藤へ提案をする。それは、この対談を『ソクラテスの弁明』のような体でリリースすることだ。しかし、”あとがき”で明かされるのは、本当は『ソクラテスの弁明』ではなく、沢木耕太郎『流星ひとつ』*2だったということだ。
『流星ひとつ』は沢木耕太郎と、藤圭子との対談だ。ここで沢木は次のように語る。
すぐれたインタヴュアーは、相手さえ知らなかったことをしゃべってもらうんですよ
これがまさにキーだ。つまり、この書籍は『流星ひとつ』のカジュアルなパロディであり、フィクションである可能性を孕んでいる。
平成とロックと~ | 流星ひとつ | |
---|---|---|
インタビュアー | ゲーム・クリエイター | 作家 |
インタビュイー | ミュージシャン | 歌手 |
場所 | 酒場 | 酒場 |
目的 | 気付いていないことを弁明として引き出す | 相手さえ知らなかったことをしゃべってもらう |
『ソクラテスの弁明』が『流星ひとつ』に置換されたくらいであれば、それは吉田建氏の言うところの「自由でフレキシブルな対応力」に通じる、臨機応変なアレンジというところなのだろう。
しかし、その一言に本書の構成から展開にまで通じる相似形を見出したなら、臨機応変なアレンジ以上の、より大きな意図の存在を勘ぐってしまう。つまり、最初から狙っていたのは、こちらの方なのではないか?ということだ。
軽い対談本だったのだが、このように読後まで楽しませてくれるのだった。