前作*1から15年、インディ・ジョーンズは本来5部作だったという話に従えば、これが本当の本当の完結編ということになる。あえて「インディ・ジョーンズ」を冠する必要性を感じないほど、前作の印象は平凡だったものだから、歴史的オーパーツであるアンティキティラ島の機械*2の効能よりも、どのようにシリーズを綺麗に締めくくるのか、に関心が向いていた。
前作から一転、三部作に対するオマージュであるかのように、本来の「インディ・ジョーンズ」とはこういうもの、というフォーマットと雰囲気に立ち戻った。とはいえ三部作は80年代の作品である。いうなれば時代劇のような紋切型であり、その展開は、いわゆる「お約束」なのだから、現代的作風のノリや目新しさは皆無だ。しかし今作そのものから一歩引いて、シリーズ全体に目を向けると、これで良かったのではないか、という気がしている。
おさらい
今作を含め「インディ・ジョーンズ」は5作品のシリーズだ。作品と時系列が少しだけ異なっている。
時系列 | 作品の順番 | 家族 人生観 |
|
---|---|---|---|
1935 | 2 | インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説 | 名声の獲得 |
1936 | 1 | レイダース 失われたアーク | 個としての活躍 |
1938 | 3 | 『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦 | 父親と息子 |
1957 | 4 | インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国 | 家族 |
1969 | 5 | インディ・ジョーンズと運命のダイヤル | 晩年を迎える 人生の幕引き |
各劇中のジョーンズ博士の人となりに注目したとき、今作では退職直後の博士が描かれる。博士は人生の晩年を迎えることになり、それはこれまでとは違う形の人生、つまり第二の人生を迎え、人生の幕引きに向き合うのだ。そう考えると、前作の存在意義から、TVシリーズ「インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険*3」の各話冒頭で、かつての冒険譚を語る老ジョーンズまでが自然につながる。
ヘレナの存在意義
ヘレナは今作の狂言回しだ。ジョーンズ博士、フォラーと併せて3つの典型的学究プロフェッショナルの一つを体現している。
ジョーンズ博士 | 理想主義 |
ヘレナ | 現実主義、自己中心主義 |
フォラー | 原理主義 |
ジョーンズ博士は理想主義だ。歴史的遺物は博物館に託すべきだと考え、自発的意思による単独行で、収奪された遺物を取り返しに出かけるくらいに偏屈で筋金入りの。
一方、フォラーも理想主義でありながら、異なる一面を備えている。組織の意向を意に介さず、贋作であることを報告するほどに実直であり、強固なナチス信奉が目的達成に向かう探求を揺るがないものとしている。
何より重要なのは、アンティキティラを用いて過去に戻れることを知っていながら、言うなれば理系学者の祖であるアルキメデスと対面するようなことよりも、それを用いてナチスのための歴史改変を優先するほど、ある意味ではこちらも偏屈で筋金入なのだ。だからこそ、アポロ11号開発でアメリカ政府に協力し、CIAとも何かを握っていた。
この間を立ち回るのがヘレナだ。まだ教育課程の最中で、基本的には金銭、名声を伴う自己実現によって駆動している。
しかし三者三様の駆け引きのようなものは、お飾りにもならない程度のディテールだ。基本的にヘレナの役割は狂言回しなのだが、物語最終版の最後の一点においてのみ、重要な役どころを担っている。ジョーンズ博士を現代に連れ戻すには、ヘレナの現実主義、自己中心性が必須であり、このためだけにヘレナは存在しているといっても過言ではない。
ジョーンズ博士は、これまで思い描いてきた古代史、その現場を目の当たりにし、この時代に残ると言い出す。博士は前述のような信条、性格の持ち主なのだから、その意思は強固であっただろう。殴ってでも連れ帰るには、躊躇なく、有無を言わせず気絶させるくらいの思い切りが必要なのだ。現実主義、自己中心性は、その裏付けとなる。
ジョーンズの追憶
ジョーンズ博士は教職を務めあげ、退職の日を迎えている。冒頭の冷蔵庫の張り紙、劇中で語られる事柄から、家族関係は良好ではない。
これまでの冒険を通じて、ジョーンズ博士は数々のオカルト的奇跡を目撃してきた。それらを信じ切っているわけではないのだが、現実として目の当たりにし、事実として存在していることを知っている。そして今回、自らが奇跡を体験し、研究対象としてきた古代史を実際に目の当たりにすることができたのだから、家族を置いて古代に残る、という意思決定は自然なものだったのだろう。
しかし現実と向き合うことは避けられないし、強制され得るものでもあるのだ。いつまでも夢を追ってはいられないし、夢からは醒めなければならない。やはりここでもカギはヘレナだ。
少なくともパートナーであるマリオンと縒りを戻す切っ掛けを得て、新しい人生を迎えることになる。ラストでフェドーラを引っ掴むのは、冒険者としてのジョーンズ復活ではなく、新しい人生に向かい合う再生を象徴している。
なによりハリソン・フォードの顔だ。物語冒頭、若いころのジョーンズ博士の顔から現在の顔まで、CGが多用されている。そして気付くのは、退職日当日のジョーンズ博士の顔と、物語ラストの自宅での顔だ。後者の顔は明らかに若返っているのだ。厳密に言えば、活気が蘇っている。活き活きした若さを印象付けるかのように、皮膚の状態、明るさがコントロールされているのだ。
かように新たなスタートに向かい合うための再生を象徴しているのだから、スタッフロール中のエンディングでも、インディ・ジョーンズのメインテーマは演奏されない。おそらく煽りや気負いもなく、冷静に過去を振り返る落ち着いた人生を過ごすのではないだろうか。その日々がヤング・インディ・シリーズ冒頭の老ジョーンズを形作っていくのだ。