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Technically Impossible

Lets look at the weak link in your statement. Anything "Technically Impossible" basically means we haven't figured out how yet.

V for Vendetta

V for Vendetta 30th Anniversary Deluxe Edition (English Edition)
これは2006年に、旧ブログへ投稿したものです。加筆、修正の上、こちらへ移行しました。

去年のゴールデンウィークに上映されていたのが『CONSTANTINE』だった。今年は『V for Vendetta』だ。かたや天国と地獄の代理戦争に参戦するエージェント、しかし彼は全側に加担していながら、天国行きは拒まれている。かたや全体主義独裁政権打倒を標榜するアナーキスト、しかし彼の活動は、自分自身の復讐も兼ねている。どちらもコミックが原作であり、妙で極端な倫理観のある所が共通点だ。

『CONSTANTINE』は完全に娯楽映画だった。『V~』は娯楽映画を装いつつ、その背景にあるアナーキズム、主人公の主義主張には考えさせられるものがあった。


このようなヒーロー、闘争モノの題材として真っ先に挙げられるのが、正義と善悪闘争だ。しかし現実を顧みれば、正義には、何か一つの明確な基準、標準形があるわけではなく、その定義は立場や環境の違いに大きく影響される。それは善悪についても同じだ。

例えばバットマンだ。原則として、彼は敵を殺さない。彼の正義は法に従うことだからだ。だから宿敵であるジョーカーを捕らえても、彼はジョーカーを警察に預け、司法の判断を仰ぐ。ジョーカーは投獄されるのだが、彼は必ず脱走し、対決は延々と続く。これは本当に正義と言えるだろうか?
もう一つのサンプルがパニッシャーだ。彼のような存在を日本の作品に例えるならば、必殺仕事人やブラック・エンジェルズに相当する。とにかく警察や法は宛にならないので、独自の思想、哲学により、独自の判断で制裁を加える。一言で言えば、自分自身が正義、的なヒーローだ。

観客(読者、視聴者)が彼らのストーリーに目を通すとき、それは神の視点でモノを見ている。神の視点から見て、パニッシャーがコトを行う背景を知っているからからこそ、観客は彼の正義を「とりあえず」肯定できる。神に視点を持つ観客は、全ての事情を知っているからだ。
当然、神の視点を持たない人は全ての事情を知りようがない。そのような人から見たとき、パニッシャーの行いから正義を感じ取れるだろうか?

『V~』は、同じような正義の矛盾を観客に突きつける。全体主義独裁政権打倒のため、主人公は日夜、政府機関に対する破壊活動を行い、国民が恐怖を克服し、彼の後に続くよう扇動する。しかし、彼は政権を打倒し、新たなリーダーになろうとしているわけではない。

彼が期待しているのは、アナーキズムの混沌から「自主的」に確立されるであろう秩序なのだ。彼は、全体主義後の新世界を作り出そうとしているのではなく、その新世界に至るお膳立てをしているに過ぎない。たとえ全体主義=悪としたとしても、この行いは善や正義と呼べるだろうか。仮に呼べるとしても、それはあまりに無責任過ぎるものではないだろうか。
性質は全く異なるものであれ、最後の決着をつける一点において、バットマンの正義に通じるものを感じるのだ。

加えて、Vの活動は、彼自身の復讐も兼ねている。その一環として、政府要人を殺害していく。神の視点によって観客は、その政府要人たちが作中で行っていることを知っている。そのため、心情としてVに肩入れできるわけだが、そこでパニッシャーと同じ理屈が働く。その背景を知らなくても、同じく肩入れできるだろうか?

個人の利益よりも、国家、社会の利益を優先するのが全体主義だ。とはいえ、全員が一致団結できるわけはなく、団結させるために専制や抑圧、迫害が行われる。それは不条理な暴力を伴い、それが正当化されることもある。正当化の理由は、主義の対象(つまり社会や国家)のためだが、とはいえ我々は、それが正義ではないことを知っている。
ならば個人主義により、個人の利益のために暴力行為に及び、それを正当化することは正義か?これも同じく主義の対象のための暴力であり、結局ところ、全体主義化の不条理な暴力と変わりはない。
つまるところ、正義云々以前に、何であれ暴力行為は正当化されるのか?できるのか?という問いに発展しそうだ。それが行われる背景を考えるとき、それが正義の名の下に行われるものであれば、何が正義か?、という問いはまだ生きている。

『V~』はそのようなことを観客に突きつける作品だ。映画は原作コミックをアレンジしたものだが、結末を曖昧にしている。コミックの結末にも曖昧さはあるのだが、曖昧さの趣が大きく異なっている。どちらも鑑賞したならば、全く異なる印象を抱くことだろう。

ちなみに全体主義や、それに対する反抗と言えば高尚な気がするものの、粒度を小さくすれば、ビジネス現場にも似たような対立構図は存在する。例えば、下手なマネジメント層と、それに反抗する労働者の構図だ。

悪が勝利する唯一の条件は、善良な人々が何も行動しないことだ。

我が身可愛さに保身だけを考え、何も行動、発現しないというのは、それについて何もしないことと変わりない、と考えれ自ずと理解できることだろう。