これは2006年に、旧ブログへ投稿したものです。加筆、修正の上、こちらへ移行しました。
評価検証部隊に所属する技術者の視点から語る、『機動戦士ガンダム』のサイド・ストーリーだ。
ガンダムをはじめとするサンライズの一連のロボット・アニメは、「リアルロボット」と呼ばれるように、その細部に現実を反映したような設定が盛り込まれている。
しかし社会生活を経験するほど、現実が重なりリアルさが損なわれていく。例えば、劇中の1年間の間、ジオン軍はどれだけの新兵器を開発し、実践投入しただろう。現実社会での最新鋭機、例えばF-22やF-35にしたところで開発には20年超の年月を経ているのだ。
もちろん宇宙世紀という時の進んだ世界では、現代社会で3Dプリンタで出力するがごとく、多品種少量生産の新兵器開発が実現しているのかもしれないが、それはリアルと呼べるだろうか。
この作品も、リアルぽさを演出しながらも、本来の現実感を重ねると、リアルさが損なわれてしまう、不思議なガンダム世界が展開されるのだった。
一連のエピソードに搭乗する兵器は、どれも評価検証機だ。そのテストを実施することがエピソードの発端に通じているのだが、成行上、そのテスト環境が実戦現場となってしまうのが、ご都合主義を感じさせる。
いずれの評価検証機も、それなりの技術が投入され、それなりの性能を示すものではあるのだが、正式採用されたものではない。テストのつもりが、図らずも実践投入され、それなりの性能を示してしまう、というのが各エピソード共通の展開だ。
このシリーズの場合、そのリアルさに通じるのは、周辺環境や、上層部の指示に翻弄される兵器と、その検証部隊の悲哀かもしれない。しかし、それらがことごとくオマケ程度に感じさせるのは、1エピソード、30分足らずのストーリーとして仕立て上げるために取って付けたような印象を受けたからだ。
本当に描きたかったのは、CGによるモビルスーツ戦と、そのリアル描写ではなかったのだろうか。その描写がモチベーションの中心にあり、何とか作新として仕上げた結果が、検証機を特徴づける設定に基づいた戦闘シーンなのだろう。実際、それ以外、印象に残るものが何もないのだ。
ガンダムというと、どこか第二次世界大戦、その関連要素からインスパイアされた要素が散見される。例えば、ジオン軍がモビルスーツを量産、本格投入することによって緒戦を圧倒する流れは、大艦巨砲主義の時代に航空機を投入し、緒戦を圧倒した旧日本軍のそれに通じるものがある。その後、技術が追いつき、物量戦略によって圧倒、逆転されてしまう流れも同じだ。
その他にも、現実と類似した話題に通じる名称もある。このような設定も、「リアル」演出の一部なのかもしれない。
星一号作戦 ア・バオア・クー攻略戦 |
天一号作戦 大和の沖縄特攻 |
ジオニズム 宇宙移民の復権 |
シオニズム ユダヤ人のイスラエル復興運動 |
この3エピソードにも、同じような要素が盛り込まれている。第1話は、まさにモビルスーツが大艦巨砲主義を覆すエピソードだ。大艦巨砲主義の到達点的な決戦兵器が、モビルスーツの登場によって陳腐化した瞬間が描かれている。
冒頭で触れた、検証部隊の悲哀が率直に描かれているのが、第2話だ。これも大艦巨砲主義の終焉に通じるエピソードなのだが、立場が逆転しているのが特徴的だ。ザクを運用するのは連邦軍であり、対する検証機は、言うなればジオン版ガンタンクとでも呼ぶべき存在だ。
第3話は、技術をキャッチアップしつつある連邦軍に圧倒されつつある状況が描かれている。特に第二次大戦に通じる描写が、両軍のプロパガンダ映像だ。おそらく意識されているのは、英独間で行われたプロパガンダの応酬だろう。とくに連邦軍のそれは、英国側の皮肉なユーモアを反映しているように見える。
個人的に印象的だったは第3話だ。オデッサ作戦から撤退してきた地上部隊が宇宙空間で防戦するのだが、地上用のザクはボールにすら翻弄されてしまう。地上戦用兵器は、宇宙では全く役に立たない。ガンダム・シリーズにおいて、これを明確に描写したのは、この作品が初めてではないだろうか。