もう倫理的に限界やろこれ
生まれてくる個人からしたら
自分の頭脳の性能が高いのも低いのも
「たまたまそういう遺伝子を与えられたから」だし、
自分の親が金持ちなのも貧乏なのも
「たまたまそういう家に生まれた」からやん
すなわち遺伝子や生まれた家の資本に恵まれた者に有利すぎる学力主義や能力主義、
そして相続制度や私有財産制度って
「生まれに基づく差別」でしかないし
それらの全肯定のもとに成り立ってる資本主義って悪そのものじゃん
人は自分の人種や身分を一切選べないように
自分の遺伝子も生まれる家も一切選べないんやで
人種差別やカースト制度が倫理的に絶対悪なら
資本主義も倫理的に絶対悪でしょ
いつまでこんな矛盾極まりない不公正なシステムを許容し続けるつもりや
いい加減進歩しようや
倫理的限界や、資本主義が悪か、はおいて、根本の仕組みが不条理すぎるのは同意だ。むしろ自然が不条理そのものであり、そこから生じたものの一つが人間だ。その人間が作った仕組みの一つが資本主義であり、それに基づいた社会の仕組みは、
- 多分に自然の要素(不条理)を継承している
- 不条理を排除する仕組みを取り入れても限界がある
- 不条理を排除するには、人間はまだまだ非力すぎる
のだから、少なくとも不条理を排除、緩和「しようとしている」だけ、自然そのままに比べれば、まだマシ、と言ったところだろうか。
私自身は、望んで生を受けたわけでもなく、このような世界、社会を望んでいるわけでもないので、資本主義や自然がどうあれ、そのような環境を肯定することはないのだが、だからと言って、ありのままを受け入れるつもりもない。
ならば、より肯定できる環境に通じる、資本主義に代わる代案があるか、と問われれば、代案はない。そもそも代案は必須ではないと思う。むしろ世界、社会の仕組みに対する代案ではなく、望んでいない世界、社会に、何も分からないままを受けることに対する代案を検討すべきではないか、と思う。
資本主義以前に、ありのままの世界、社会そのもののの存在を受容しないし、自分自身がそこに存在することを望まないのならば、選択肢は次のいずれかではないだろうか。
- 世界を消す
- 世界は存在して良いから、自分を消す
世界を肯定、受容している人たちの考えを尊重すれば、後者が妥当な選択肢だろう。そして、その手段として現実的なのは、現時点では安楽死だ。
人生のある時点で、自分自身がこの世を去るタイミングを決め、迅速、苦痛なく、安らかに実行できる仕組み、手段が用意されて当然と思う。
『神様はつらい』*1で、神同然の存在に対して、知識人は次のように述べる。
神様、私たちを地上から一掃してしまって、あらためて、もっと完全な人々をおつくりください。
私の意見は違う。地上から一掃して、二度と作るな!ということだ。あるいは、このような表現もできるだろう。