劇中劇というものがある。私たち、観客が観賞している作品の、その世界の中で演じられる劇であり、それを含む作品というのは、言うなれば入れ子構造の劇だ。基本的に観客は、その入れ子構造の外、いわゆるメタの視点から作品を観賞する。
そのような構成を取り入れている代表的な作品は『トゥルーマン・ショー』(The Truman Show)だろう。劇中劇という体裁ではないのだが、昨年公開されたウェス・アンダーソン監督の『フレンチ・ディスパッチ』*1も、映画の体裁を借りた雑誌であり、各エピソードがその記事であるという、メタ視点の構成だった。
今作『アステロイド・シティ』が特徴的なのは、メタ視点と劇中劇視点の主従関係が逆転していることだ。劇中、主に繰り広げられるカラー映像の視点は劇中劇のものであり、時折挿入される白黒映像が劇中でのメタ視点だ。今作『アステロイド・シティ』の観客は、劇中劇視点で観賞しながら、これらを包含したメタ視点(つまり劇中メタ視点のさらにメタ視点)でも観賞することになる。
雰囲気づくりの失敗、あるいは悪乗り
世界観をカラーとモノクロで分けており、映像の縦横比も変化するので、この視点と、それに基づく世界の解釈は容易い。しかし容易いからと言って、それが作品を解釈する上で重要な何かをつかみ取るきっかけとなるかは別だ。なぜなら、この作品は、いわゆる「雰囲気」映画なのだが、全てが上滑りしている。肝心の「雰囲気」作りに失敗しているからだ。
構成が理解できたからと言って、何も楽しめる余地はない。好意的に表現すれば、決してウェス・アンダーソン監督のベストとは言えない作品だ。
おそらくウェス・アンダーソンは、このことを理解している。あるいは承知の上で、悪乗りしている節がある。その典型例が、劇中劇の出演者たちに深い眠りに落ちる演技を要求する場面だ。
You can’t wake up if you don’t fall asleep
これはスタッフ・ロールで演奏される曲のタイトルでもあり「wake up」の一言で締めくくられる。この一言が今作『アステロイド・シティ』の観客に向けたものと解釈するならば、この作品が、いわゆる「眠たくなる」作品であることを、監督自身が自覚していたのではないだろうか。
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二重の演技、つまり入れ子構造の演技
ただし、このシーンを挟んで主人公に関わる2つの仕掛けがある。あまり作品の印象に影響する要素ではないのだが、おそらく作品を理解するうえでは重要になりそうなポイントでもある。
劇中劇『アステロイド・シティ』の劇作家と、その主人公を演じる役者は、同性愛の恋仲であることが、冒頭のモノクロ場面で示される。先の眠りに落ちる演技を要求する場面の直前では、劇中劇の上映半年後に急死したことが明かされている。つまり主人公を演じている役者は、
現実の悲しみ | 劇作家という恋人を失った悲しみ |
劇中の悲しみ | 妻を失った悲しみ |
を二重に演じていることになる。つまり悲しみの入れ子構造だ。今作『アステロイド・シティ』の構成同様、演技にも入れ子構造が取り入れられている。
スカーレット・ヨハンソン、そして映画の印象
そして、このような構成を最も極端に取り入れているのが、スカーレット・ヨハンソンの存在だ。
スカーレット・ヨハンソンは女優だ。その女優は、私たちが見ている映画『アステロイド・シティ』に出演している。その女優が演じる役は「女優」だ。映画『アステロイド・シティ』の劇中には、劇中劇の『アステロイド・シティ』が存在する。その「女優」は、劇中劇にも出演する。そして、その役はやはり<女優>なのだ。
だからと言って、スカーレット・ヨハンソンは、このすべての役どころを意識して演じ分けているだろうか?おそらくしていないだろう、と私は思う。ただし、そのように演じている、と観客に感じさせる何か、役者としての職人芸的なものが発露した結果として、それぞれが切り離された存在として演じ分けられている感覚、あるいはそれぞれが混在した相乗効果がをもたらす印象を覚えるのではないか。
このような構造が、スカーレット・ヨハンソンの演技自体に表れている。劇中劇での彼女は、浴室で服毒自殺した女性の演技をしたいと言う。これは劇中劇の登場人物である<女優>の欲求だ。そして劇中劇にて実際に、それを演じながら主人公と会話するのだ。この演技は出色だった。ポーズは見事に服毒自殺した女性のそれでありながら、顔と口だけは見事に会話する出演者としてのそれなのだ。
さらに劇中劇に出演する「女優」の存在がオーバーラップする。この場面での会話の結末は、劇中劇『アステロイド・シティ』のラストの伏線となっており、同時に映画『アステロイド・シティ』の結末に、少し先行きの明るい印象を与えている。つまり、
劇中劇の結末 | 女優は主人公にメモを渡す 住所ではなく私書箱だが |
縁がありそうな暗示 |
映画の結末 | 劇中劇の結末がもたらす印象 | 恋人を失った喪失感からの脱却 |
とはいえ…
しかし、だからと言って映画が見事、とはならないのだ。「眠たい」映画であった印象は覆しようがない。
たまたま9月1日が金曜日であり、いわゆるファーストディの割引があったからこそ、観賞後の気持ちも穏やかでいられる。これを通常料金2000円で観賞していたら、と思えば…
構成上の構成が見事だからと言って、手放しで作品を褒めることができるほど、私はお人よしではないし、いわゆる「信者」ではないのだ。