Technically Impossible

Lets look at the weak link in your statement. Anything "Technically Impossible" basically means we haven't figured out how yet.

THE DARK KNIGHT


これは2008年に以前のブログへ投稿したエントリーを加筆、編集したものです。

スーパー・ヒーローの中でも、バットマンは異色の存在だ。いわゆる「正義」の見方ではなく、「法」の正義*1に与する存在なのだ。その点において、スーパーマンのような存在は彼の対称的なヒーロー像にはなり得ない。パニッシャー*2のように、自分自身が法であるかのように振舞う存在が、対象的なヒーロー像だ。

悪役を裁くのは、あくまでも法であり、自分自身ではないことを、バットマンは理解している。だから彼は、決して悪役を殺すことはなく、必ず警察に引き渡す。しかし登場する強敵たちは、たとえ法で裁かれても、生きている限り犯罪を犯し続け、バットマンの前に立ちはだかり続ける。
つまりバットマンは、次のような二重のジレンマを抱えている。

  • いくら法を順守しても、自分自身の存在が法に則していない。
  • どれほど活躍しようが、自分自身で決着をつけることができる。

ヒーローものでありながら、ダークな雰囲気が付きまとうのがバットマン作品の特徴だが、特にこのジレンマに注目すればするほど、雰囲気や印象は「ダーク」から「重さ」へと変化していく。


そのような要素を真正面から捉えるには、バットマン自身の存在、立場を相対的に強調できる悪役が求められる。そして、二重のジレンマを揺るがせるような存在である必要がある。
バットマンに登場する悪役の一人、ジョーカーには、どこか愛嬌のある、憎めない、愉快な存在である一面、振舞いが付きまとう。そこへ法の正義を揺るがすどころか、人間性の善悪にまで踏み込んでくるような凄まじさを持ち込んだのが、ヒース・レジャーが演じる今作のジョーカーだ。
演技が醸し出す緊張感、それを維持しながら残酷描写に結びつける演出は、観客を追い詰めるような迫力がある。実際、この演技は各所で絶賛されている。この演技に触れた冷泉彰彦は、JMM*3でのコラムにて、次のように評している。

親が「子供のどんな疑問にもしっかり答えられる」ということでもない限り、13歳未満の子供にこの作品を見せるのは賛成できません。

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悪を体現するジョーカーの饒舌さに対し、バットマンをはじめとする善/「法」の正義の体現者たちは、非常に寡黙であるばかりでなく、その一人はジョーカーによって悪に転落することになる。
象徴としての正義を維持するための代償を、本来の正義に立つものが背負い続けなければならない、と物語は結論付ける。強烈に表現された悪の強力さに対して、善/正義は脆弱で負担の大きなものであることを示唆している。とにかく善悪対比における、悪の存在が非常に強烈で、この作品の醸しだす「重さ」のポイントとなっている。

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余談:「正義」と言うモチーフ

バットマン・シリーズには「正義」にまつわるモチーフが付きまとう。同じ正義を行使するにしても、どこまでが適当で、どこからが生き過ぎなのか、そのようなモチーフは二代目バットマンであるアズラエルを通して表現されている。
またジャスティス・リーグの『Kingdom Come*4は、それに参加するヒーローそれぞれが信じる正義の衝突として表現された。「正義」と一言で言っても、そこには法の正義から、自分自身正義まで、様々な形態があるのだ。

余談:冷泉彰彦の善悪論

冷泉彰彦は、ヒーロー像やスターウォーズを題材にした善悪論を、JMMのコラムで論じていた。

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