「事件」と聞いて、まず気分の良くなることはないのだが、旭川のいじめ自殺事件は群を抜くほどの気分を滅入らせるものだ。関連記事を読んでからというもの、常に意識のどこかを、この事件のことが占めるようになった。また、これまで見聞きした事柄との関連から派生した考えもチラつきはじめ、何かと集中しずらくもなった。
まとまりがなくとも浮かんでくる事柄をまとめて吐き出しておくことにした。この投稿は、その前半だ。
日本は本当に法治国家なのか?
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妥当性はともかく、教育機関も警察も、そしてなぜか大きく報道することのないマスコミ各社についても、法律に従っているだけなのだろう。いくら個人が釈然としないからと言って、法律に従っている以上は「法治」なのだろうが、つい最近、見聞きした話題から、本当に「法治」なのか、あるいは、それは機能しているのか?という疑問が浮かんでいる。
最近、見聞きした話題とは、この事件とは全く関連のない話題だ。ただ自分の中で、「法治」は機能しているのか?という点においてだけ繋がっている。それは投資家の片山晃氏の制度ロックアップ違反だ。
片山氏は自身のブログを通じて、次のことに触れている。
- 任意ロックアップは知っていたが、制度ロックアップは知らなかった
- 自身の不注意、不勉強による誤認によって、売却してしまった
おそらく文字通りのことが理由なのであろう。一方で、直接の関連性を示す根拠はないものの、昨年10月25日に、自身のTwitterに次のことを投稿している。
結局これが答えだよね。利根川さんも言っていたが、2000万円と言うのは大金なんだ。持たざる者にとっては命を賭さねば得られないような大金。だから処罰の内容がネットのごく一部で批判される程度で数千万、あるいは億という金が手に入るのだとしたら、やらない方がバカだという考え方もあるんでしょう
結局これが答えだよね。利根川さんも言っていたが、2000万円と言うのは大金なんだ。持たざる者にとっては命を賭さねば得られないような大金。だから処罰の内容がネットのごく一部で批判される程度で数千万、あるいは億という金が手に入るのだとしたら、やらない方がバカだという考え方もあるんでしょう
— 五月 (@hakureifarm) October 25, 2020
ロックアップ期間中の売却に罰則がないことを事前に知った上で、売却によって生じるであろう社会的なリスクを許容する、それが自身にとって大したことがないという前提では、投稿通り「やらない方がバカ」ということなのだろう。そして、この点が事件との関連について引っかかっていることだ。
対象が何であれルールに違反すること。例えば犯罪においてさえ、加害者に次のような認識があれば、やはり「やらない方がバカ」という考えに通じ、実行も躊躇しないのではないか。
・自らが罰せられることはない
・ネットのごく一部で批判される程度のこと
そして事件として大騒ぎされたところで片山氏同様、「無知だった」に通じる言い逃れ、あるいはDQN的逆切れや挑発を含む「反省」で済むならば、加害者にとっては、してやったり、な結果なのではないだろうか。
結局のところ、法律が定められていたところで、加害行為に対する抑止力、制裁、懲戒として機能しなければ、たとえ法律自体が機能していたとしても、事実上、機能していないのと同義ではないか、法律が「存在するだけ」ということだ。
特定班も未成年だったら
このような事件が起きたとき、加害者や家族、関連する組織などを特定する人たちがいる。特定された情報がネット上に拡散されたところで、それによって何らかの危害が加えられた、社会生活上の支障が生じた、ということにでもならなければ、それは「法治」外の自警団的な行為にもつながらない。前述の「ネットのごく一部で批判される程度」のことであるのと、何も変わりはない。
問題なのは、その特定された情報が誤っていたときだ。事件の影響範囲が、それとは無関係な所にも拡大してしまうし、その特定班と呼ばれる人たちも加害者となってしまうことだ。そして思うのは、この事件同様、その特定班の加害者もまた未成年であった場合のことだ。
大金や社会的な名声のような大それた物事ではなく、個人の義憤や正義感に裏付けられた充足感や高揚感、効能感のような精神的な事柄を報酬として、「やらない方がバカ」と実行に及んでとしても、先に述べた通り、やはり「無知だった」程度の「反省」で済んでしまうのではないか。
そして、それが分かっているからこそ、積極的に特定班として活動してしまうこともあり得るのではないか、と考えてしまう。
もしそのようなことがあれば、発端の事件同様、被害者は救われないだろう。
警察の軽重判断
一応、警察は動いているのだが、その動き方に違和感を感じるのは、やはり別に見聞きした話題との関連からだ。先と同様、この事件とは全く関連のない話題だ。それは俗に「アラート・ループ事件」と呼ばれる話題だ。
アラート・ループ事件では、ITを「分かっている」人達から見れば、些細ないたずら程度のことなのだが、警察は家宅捜査、補導、児童相談所への通告を行っている。
地域、事件の担当部署など、諸々は異なるところだが少年法は共通に適用される。そして今回の事件では、証拠不十分での厳重注意に留まっている。これも法律に定められた範囲での「法治」の結果なのだ。
今回の事件で警察が本格的に動いたのは、被害者の失踪、捜索であり、事件中に行われた犯罪行為についてではない。そして結果が証拠不十分なのだ。事件の性質や特性を前提に考えれば、法律以前に、事象を取り扱う軽重判断、そして対応がおかしい、と考えてしまう。
「イジメ」という呼称
「イジメ」と表現される行為の実態は、明らかに犯罪行為だ。行われている行為の総称として「イジメ」と表現するのではなく、犯罪行為としての名称で具体的に表現するべきではないか。それは加害者である子供だけにではなく、無力な傍観者として加害者に加担している教育者たちに対してもだ。例えばこうだ。
「あなたの生徒がしていることはイジメ」とするのではなく、
- 「あなたが目撃(傍観)している行為は、犯罪行為です」
- 「あなたが目撃(傍観)しているのは、**罪の犯行現場です」
- 「あなたの生徒がしていることは犯罪、具体的には**罪です」
この手の話題で毎回、イジメの有無を確認するアンケート調査がある。アンケート調査にも、具体的な犯罪行為と名称を明記し、生徒にも同様に、犯罪行為を目撃(傍観)していることを認識させてはどうなのか。たとえ自責の念がなくとも、それが犯罪行為であることを認識させる必要はあるはずだ。
後半へ
まとまりがなくとも浮かんでくる事柄をまとめて吐き出しておくことにした、その後半。
impsbl.hatenablog.jp