『シン・ウルトラマン』は、文句なしに楽しめた作品ではあったのだが、映画『シン・ゴジラ』の鑑賞中に感じた新規性のある驚き、圧倒感のようなものを感じることはなかった。
しかし、その映像表現、提供される情報とその解釈に加えて、過去のウルトラ・シリーズ視聴経験を通じて呼び覚まされた記憶、社会人になって以降の経験を通じた解釈、などなど、様々な事柄が鑑賞中に去来する、これまでにない視聴体験だった。
普段は意識もしない、記憶していることすら忘れているあれこれが、映像をきっかけに一度に呼び覚まされるのだ。まだそんなことを覚えていた、という驚きもあれば、それがさらにフィードバック・ループによって増幅され、自分の中に新しい解釈が構築される。
まとまりはなくとも、書き出さずにはいられなくなってしまった。
ウルトラQからウルトラマンへ、シン・ゴジラからシン・ウルトラマンへ
オープニングから、旧作のオマージュで始まる。テレビ『ウルトラマン』のオープニング直前に『ウルトラQ』の渦巻モーション・ロゴが挿入されていたように、『シン・ゴジラ』の渦巻モーション・ロゴから『シン・ウルトラマン』のオープニングへつながる。
これは後述するマルチバースへ通じる仕掛けというよりも、端的にウルトラQからウルトラマンへの流れを汲んだ、「シン」ブランドなりのアレンジ、ということだろう。
特に冒頭のネロンガ戦はオマージュ、アレンジが満載だ。たとえば、この光線の受け止め方だ。是非劇中のものと比較してみてほしい。
作品中には、このようなウルトラ・シリーズ、特に昭和を感じさせる演出が様々に散りばめられていた。
- 特撮的な映像表現を「あえて」再現したかのような、不自然な動作。
- 当時の演技を「あえて」再現したかのような、不自然な演技、ワザとらしい仕草。
- 無機的、未来的、かつ『ウルトラセブン』的演出。
- 無人の地下駐車場
- 作業通路
- トンネルと自動車
- 団地、工場、
特にメフィラスとウルトラマンの対話は、『ウルトラセブン』に登場する、ちゃぶ台を挟んでメトロン星人と対話するシーンを印象付けると同時に、宇宙人同士のマウンティングを感じさせるアレンジを感じたシーンだった。
他言語による会話~宇宙人同士のマウンティング
外資系企業で働いていると、日常場面でのこともあれば、ビジネス現場、ズバリ会議中まで、外国人同士なのに日本語で話している場面に遭遇することがある。英語に不慣れな日本人に気を使っている、という解釈もできるだろうが、実際は違うのだ。ここには二通りのマウンティングがある。
- 外国人同士のマウンティング
- 自分の方がより上手に日本語を操れる
- 日本語で優位、上手に立つ
- 日本人に対するマウンティング
- 相手の英語より、自分の日本語の方が上
- 下手な英語に合わせるよりも、日本語に合わせたほうが良い
よりカジュアルな場面、たとえば電車内、カフェ、レストランなどで、外国人+日本人のカップル、あるいは二人組がこれ見よがしに、無用に騒々しく英会話している場面を見かけることもあるだろう。あれも「自分はできる」というデモンストレーションであり、つまり周囲に対するマウンティングだ。
劇中、原生人類(つまり人間)よりも上位の存在であり、それを「見守る」立場として、ウルトラマンは『広辞苑』からレヴィ=ストロース『野生の思考』など、他言語リソースを通じて自ら理解を深めようとする。これはマウンティングというよりもリスペクトに近いが、自らの存在が上位であることを意識しているのには変わりない。
一方、現生人類を滅ぼすべき存在と認識しているザラブ星人は翻訳ソフト、ツールに頼る。つまり学ぶべきことなどない、あるいは学びすら無用と考えている。これらは態度は異なれども、後者のマウンティングに通じている。
そして劇中のメフィラスとウルトラマンとの対話が、まさに前者の様な宇宙人同士のマウンティングを伴うコミュニケーションだった。団地のブランコから居酒屋のカウンターまで、昭和的な舞台で宇宙人同士が日本語で対話するのは、映像表現としての演出であり、そこにマウンティングが介在する設定も意図もないのが実際のところだろう。しかし一視聴者の視点では、次の一言によってマウンティングは勝利に終わる。「割り勘でいいか?」だ。
「割り勘」を知っているか否かは問題ではない。それ以前の問題として、おそらくウルトラマンは、あの場で代金を支払うことすら意識していなかったのではないだろうか。
外星人0号を自称するだけのことはあり、原生人類、特に日本人に対する知見はウルトラマンを上回っていたのだろうし、このような細部が、次の二つ名にも通じていると感じさせるのだ。
宇宙人と二つ名
『ウルトラマン』に登場する怪獣、宇宙人には二つ名を伴うものがあった。バルタン星人なら宇宙忍者、メフィラス星人なら悪質宇宙人、ザラブ星人なら凶悪宇宙人、といった具合だ。少年時代の私は、そのような二つ名など意に介さず、意味があるものとしてすら捉えてはいなかった。
今回のアレンジで、そのような二つ名がどこまで意識されたのかは定かではないが、そのような二つ名の所以のようなものが感じられる、納得感があった。
仲違いを生じさせる埋伏の毒であり、支配ではなく滅ぼすことが目的である存在とは、確かに「凶悪」であろうし、依存に通じる仕組みを仕掛け、それを通じての支配、略取、兵器転用を目論むというのも確かに「悪質」だ。
科特隊
科学特捜隊こと科特隊は、禍威獣特設対策室専従班の通称、禍特対としてアレンジされた。国際機関の日本支部である科特隊から、行政機関の一部門としての禍特対への変換は、テレビ『ウルトラマン』だけでなく、現実社会を知る者として納得感がある。書籍『ウルトラマン研究序説』*1が触れているように、科特隊の存在、その基地を日本に置くことは、憲法的な議論を伴うからだ。
いくら科特隊と、その武装が空想の産物だからとはいえ、現実を模した日本を舞台とする以上、映画『シン・ゴジラ』的なリアルさを演出するには欠かすことのできないアレンジ要素だっただろう。
ウルトラマン
科特隊抜き、ウルトラマン抜きの怪獣退治
『ウルトラマン』の前身である『ウルトラQ』では、怪獣に対峙していたのは、ほぼ一般市民同然の登場人物たちだった。ウルトラマンだけでなく、科特隊にすら頼らずとも、怪獣を退治していた実績が、かつてのウルトラ・シリーズにはあった。
その実績を継承し、垣間見せていたのが、『シン・ウルトラマン』のオープニングだった。つまり、ウルトラマン抜きでも怪獣は退治できることを示していた。
実際『ウルトラマン』には、ウルトラマンと科特隊の共闘が描かれるエピソードが挿入されていた。その構図は、ウルトラマンが怪獣を倒す一方で、イデ隊員の開発した兵器で別の怪獣を倒す、というものだった。例外が最終回のゼットンだ。ウルトラマンは倒れ、岩本博士の開発した兵器によってゼットンを倒す。
意外なことに、『シン・ウルトラマン』では共闘で終わった。ウルトラマンが情報を与え、人類が方法を考案し、ウルトラマンが実践する。
マルチバース
マーベル的なマルチバースを想定しているのか、東映まんがまつり(例えば『マジンガーZ対デビルマン』)やスーパーロボット大戦のような、いわゆるクロスオーバー、コラボレーション的なマルチバースを想定しているのか分からないが、シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース*4の作品に通じるような要素、類似点が、所々に感じられた。例えば