Technically Impossible

Lets look at the weak link in your statement. Anything "Technically Impossible" basically means we haven't figured out how yet.

シン・仮面ライダー

シン・仮面ライダー

公開初日からTwitterに流れる投稿を見て、エヴァQの再来を懸念していたのだが、全くの杞憂だった。決して、『シン・ゴジラ』、『シン・ウルトラマン*1のように一般受けしそうなものではなく、そもそも『仮面ライダー』という題材自体が彼らに比べて一歩及ばない要素がある。それは、

  • 等身大のヒーローと怪人
  • 悪の組織の荒唐無稽さ
  • テレビの印象とは異なる作家性→石ノ森章太郎原作

などなど

それにしても、昭和にテレビの再放送などで見た『仮面ライダー』を覚えている層にとっては、「確かにこういうものだった」という雰囲気を感じさせるアレンジは、見ていて心地良いものがあった。さらに言えば、設定には昭和時代のテレビ番組を思わせるいい加減さを残しながらも、構成と演出は、観客を置き去りにしない配慮、親切さを感じさせるものだった。

サソリオーグのエピソードに、それを痛感させられた。このようなエピソードは無用ではないかと感じていたのだが、見事に直後のエピソードに繋がる存在理由があった。

殴れば痛いし出血もする - いじめっ子と仮面ライダー

この映画はPG12に指定されている。オープニングは、そのレーティングの根拠を全力で見せつけるかのような暴力の連続だった。そもそも仮面ライダーは改造人間であり、通常の人間とは能力もパワーもダントツに異なるのだ。オープニングでは、その違いを戦闘員の流血によって見せつけるのだった。

設定を説明せず、見せることで伝える演出だが、過去の仮面ライダーを知る者として感じたのは、昭和のいじめっ子という存在についてだった。仮面ライダーごっこと称して、相対的に強い立場の子どもが、弱い立場の子どもに、ちょっとした暴力を振るうことに繋がるのだ。

今回の劇中のように、率直に流血を伴う暴力を見せつけられれば、さらに戦闘は回を重ねるごとに荒唐無稽になり、最終決戦は喧嘩同然の見苦しいものになれば、いくら子供でも真似しようとは思わないだろう。

仮面ライダーと同列の怪人たち

仮面ライダーがヒーローであることを相対的に具現化するためか、悪の組織が生み出した改造人間でありながら、ライダーと怪人たちの外見は似ても似つかないものばかりだった。今回の階人たちは違った。明らかにライダーと同等にデザインされており、それぞれの特徴を象徴する意匠を有している。
個々人が置かれている状況、そこから培われた意思が異なるだけで、共通の組織による出自を示す意図が十分に施された外見をしていた。

さらに、基本的に生物+人間という構成でありながら、昆虫+爬虫類+人間という三個一の無理矢理さも、自ずとその外見デザインから伝わるものだった。

とにかく説明、それが親切

悪の組織の存在理由:人々の幸せ→悪の組織たる所以

悪の組織の目的とするところを率直に表現すれば世界征服だ。今作では、人々の幸せ、ということになっている。このアイデアに捻りがあるのが、この作品だ。最大多数の最大幸福、つまりマジョリティの幸せを追求するのではなく、マイノリティの幸せを追求するのだ。それも極端に偏った状況に置かれている人たちのだ。その底上げによって、人々の幸せを追求しようとする。

これは一見ボトムアップ・アプローチに見えて、そうなっていないところが「悪」の組織たる所以だ。その極端に偏った状況に置かれている人たちは、その組織の幹部たちであり、その所業が歪んでいるのだ。ボトムアップ・アプローチが機能しているのではなく、それぞれの世直しとしての取組が間違っているのだ。

そして、その取り組みへの解釈が本郷(仮面ライダー1号)とイチロウ(仮面ライダー0号)の立場の違いにも通じている

なぜ仮面ライダーは戦うのか:自分を変えるか、世界を変えるか

本郷は父を、イチロウは母を、それぞれ理不尽な理由で失っている。そこから生じた偏った境遇に置いて、本郷は自分を変えることを、そしてイチロウは世界を変えることを志向した。この背景と精神は、それぞれがライダーになった(改造された)背景にも通じているし、その後の活動目的にも通じている。

だから本郷(仮面ライダー)は戦っているのであり、ただ悪の組織だからぶっ潰す、ために戦っているのではないのだ。
ただしショッカー本体(AI)が考える人々の幸せと、イチロウが考える世界が整合しているとは限らない。つまりイチロウは、世界を変えるためにショッカーを利用しているのだ。

ちなみにイチロウも一怪人的に見えなくもないのだが、他の怪人たちとの格の違いを見せつけるような詳細が明かされず、その表現にはどこか適当なところがある。こういうところで、いい加減さを残すのが原作オマージュな演出なのかもしれない。

棒読みの演技:演技が下手なのではなく演出→設定

仮面ライダー1号、2号、ルリ子をはじめ、ことごとく棒読み、演技に感情がこもっていないか、ワザとらしい。これもやはり原作オマージュな演出なのだろう。子供向けテレビ番組に、Aクラスの俳優が登場することはまずありえない。

そして、さらにあり得るのが設定だ。仮面ライダーは改造人間であり、特に戦闘に対する適応のために人間性が抑制される仕掛けが施されている。そしてルリ子は、言うなれば人造人間だ。そのように考えれば、他の怪人たちの不自然な演技や、仮面ライダー2号のわざとらしさも、「設定上は」納得がいくものだろう。

工事現場や工場での戦闘

仮面ライダーに限らず、戦隊もののような等身大ヒーロー達の戦場に登場することが多いのが、工事現場や工場だ。これに良い都合の良い解釈と理由を与えていたのが、仮面ライダー1号、2号の対決シーンだ。仮面ライダー2号を通じて語られるのが、

  • 誰にも迷惑かからない
  • 1号はエネルギーを集める必要がある

特に前者はメタ的視点も反映された皮肉ぽさも感じさせるが、それにしてもうまく状況設定に反映させたと思う。

スター・システム→マルチバース

シン・ゴジラ』以来、共通して採用されているのがスター・システム*2だ。役割は異なれども、同じ俳優が登場する仕掛けは、昭和のゴジラウルトラマン仮面ライダーでもおなじみだ。『仮面ライダー』の「おやっさん」を演じた小林昭二は、『ウルトラマン』ではムラマツ・キャップだし、『ゴジラ』の芹沢博士を演じた平田昭彦ゴジラ・シリーズの常連のみならず、『ウルトラマン』にも登場していた。

シン・ゴジラ』以来のキャスティングも、これに倣ったオマージュ的演出なのかもしれないが、今風に解釈すればマルチバースに通じるのかもしれない。例えば、シン・ジャパン・ヒーローズ・ユニバース*3への商業的な布石だ。

小ネタ

スナックAmigoは、差し入れの紙袋として登場。

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