宇宙人があるいは人類を侵略する、地球を侵略するというとき、それは具体的にどのようなことを表しているのだろう。
- 人類を滅ぼす。地球をどうするのかは分からない。
- 地球を支配する。人類をどうするのかはわからない。
映画『散歩する侵略者』の宇宙人は、どうやら前者を志向しているようだ。ただ人間の抱いている概念には関心があるようで、それを侵略前に収集している。ここに、この作品の面白い仕掛けがある。
概念の喪失→解放?
概念はデジタル・データのようにコピーできるものではなく、宇宙人による概念の収集とは、概念を複写、複製することではない。登場人物から宇宙人へ、概念を転移させることなのだ。だから概念を収集されると、登場人物はその概念を失ってしまう。
この仕掛けとともに、概念を喪失した状態の解釈に、この作品の面白さがある。概念を失うことによって、社会的束縛や義務、執着から解放される一面があるようだ。”所有”の概念を奪われた引きこもりは外出できるようになり、”邪魔”や”迷惑”の概念を奪われた政府高官は、「みんな友達だよね」と口走る。
概念と行動の繋がりを直観的に見出すことはできないが、それらが何となく連携している印象は理解できる気がする。そして、この漠とした理解、得体の知れなさがが、この作品のオチに通じている。
概念の体得
宇宙人が概念を奪うのとは対照的に、宇宙人を通じて、概念を体得する登場人物がいる。長谷川博己演じる、”社会派”ジャーナリストの桜井だ。宇宙人の存在、目的を知る登場人物である桜井は、密着取材も兼ねて宇宙人のガイドとして同行する。その行動を通じて、桜井が体得するのが”仲間”という概念だ。
桜井がガイドしている宇宙人(が乗っ取っている人物、天野)が、桜井に家族について尋ねる。桜井には別れた妻と息子がいる。息子は、天野と同じ年頃だ。天野に家族はいないが、生まれ故郷に仲間のようなものはたくさんいる、と語る。それを聞いた桜井は、微笑みながら「いいよなぁ」と返す。桜井は孤立無援であり、彼に仲間は一人もいないことを暗示している。
さらに天野は、彼の仕事である侵略は、その仲間たちのためだと、続ける。ここで桜井は、少しだけ人類をサンプルとして生かしておくプランへ志願する。天野は「大歓迎だよ」と応じる。桜井が仲間を得た瞬間だ。
この仲間意識は、天野が仕事を最後までやり遂げることをサポートし、瀕死の天野が乗り移る先として、自分自身を捧げる行動に通じている。
得体のしれない”愛”
宇宙人は牧師から”愛”の概念を収集しようとする。しかし牧師は「”愛”は、あなたの内側にあります」と告げる。牧師が言うところの愛とは、
- 寛容であり、親切
- 人を妬まず、自慢もしない
- 礼儀正しく、自分の利益を求めない
- 怒らず、他人のした悪を咎めない
- 不正を喜ばず、心理を喜ぶ
- すべてを我慢し、すべてを信じる
- すべてを期待し、耐え忍ぶ
- 愛は決して絶えることがない
これを聞いた宇宙人は、「ちょっと多すぎて」収集に失敗する。
宇宙人は概念を収集すると同時に、乗っ取った人物の記憶や知識を引継ぎ、融合することができる。関係の破綻した夫婦の、夫が宇宙人に乗っ取られる。夫と融合するかのようして、宇宙人は理想の夫に近づいていき、そうなることを妻に打ち明ける。妻は、夫がすでに真の夫ではないことを知りながら、理想の夫に近づいていく宇宙人と、関係を修復した生活が取り戻せることを期待して、夫同然に触れ合い始める。
私には、これは懐柔されただけ、妥協の結果のように見えるのだが、果たして”愛”の為せる業なのだろうか。さらに言えば、この時、妻が夫(宇宙人)に対して抱いている感情は”愛”なのだろうか。劇中、このように「愛」という概念はトリッキーに機能している。
妻は夫に、自分から「愛」の概念を収集するよう懇願する。「愛」の収集に成功した夫が「これは何だ?」と驚愕、困惑する。何か得体のしれないすごいもの、しかし具体的に何かを示そうとはしない。おそらくできないのだ。それは牧師のエピソードを見ても分かる。
そしてオチに至るのだ。「愛」の概念を収集してしまったがために、宇宙人にも「愛」が芽生えた結果が物語のオチに通じている。
愛は絶えることがないので、収集された”愛”は侵略者である宇宙人たちにも芽生えた。そして俊略が止まる。また絶えることがないから、概念を奪われても、そのうち復活するのだ。つまり妻も、そのうち”愛”を取り戻すことになる。