まず海外では1年前に公開された作品であり、とっくにネタバレもされている作品だ。たとえ細部を追いきれなかったり、ストーリーが理解できなかったりしても、あらすじ等々はWikipediaでも公開されている*1。とはいえ、決してストーリーや展開が理解できないほど複雑な構成の映画ではない。
様々な要素、主張が投入されているのだが、基本的にはくだらない映画だ。次元超越のトリガーが、確率的にあり得ない行動を取ることであり、それが随所に盛り込まれた諸々の一発ネタだ。本当にくだらないネタだらけなのだが、なぜか鑑賞中、涙しているのである。自分で何に感動しているのか全く分からない。作品の演出だけでなく、観客自身もカオスを体験できる作品だった。
全マルチ・バースを巻き込んだ親子喧嘩≒『STAR WARS』
娘と母の対立を主軸に、お互いの主張が作品のメッセージに通じている。母の娘に対する対応は、母自身が父親から受けた対応が影響しており、その意味ではマルチ・バース全域を巻き込んだ親子喧嘩だ。
こうなると連想するのが『STAR WARS』だ。9エピソードの内の6エピソードは、全銀河を巻き込んだ親子喧嘩の発端から相互理解までを描いている。『STAR WARS』は打ち克つこと、打ち倒すことを通じて相互理解に到達するのだが、『Everything~』は、異なるマルチ・バースに存在する自分自身の経験を通じて、相互理解に至る包摂に到達する。
相手のことは経験するまで分からない
面白いのは、異なるマルチ・バースに存在する自分自身を経験するのが、パロディにも通じていることだ。映画『MATRIX』では、現実世界のオペレータから情報を転送(インストール)してもらうことで、仮想世界の主人公たちは様々なスキルを活用できる。登場人物たちは、これと同じことをマルチ・バースでの経験を通じて実践していく。
しかし、これは作品においては副次的な要素だ。本題は、包摂に到達する相互理解に達するまでは、対立するお互いがそれぞれの立場、状況を経験するまで分からないということだ。
異なるマルチ・バースの自分自身を経験するというのは、異なる立場、状況を自分自身で経験することでもある。つまり異なる立場の相手のことは、経験するまで分からない、理解できないということだ。しかし、この経験が同じ見解に通じるとは限らないのが、この作品のポイントだ。
全てを成し遂げた≠何も成し遂げていない→虚無
マルチ・バースでの経験を通じて、娘はあらゆることを成し遂げた。その結果、全てを吸収しつくすブラックホール的な存在である「ベーグル」を生み出した。ベーグルを通じて、全てを消し去ろうとしている。つまり虚無だ。
一方、何も成し遂げていなかったのが母だ。つまりは母は、マルチ・バースに接するまでもなく虚無なのだ。まさに「馬鹿と天才は紙一重」に通じるような状況だ。
たとえ意味のない存在でも優しく
構成上秀逸だったのが、岩の対話シーンだ。生命が誕生する条件が整わなかった環境で、母と娘は岩となって対話する。起承転結の転に該当するシーンだ。
カオスにあふれた映像中、そのカオスの一端を担う表現でありながら、唯一、カオスに陥らない印象のシーンでもある。そのため小休止のようにも感じられるシーンだが、それだけ語られるメッセージが重要なシーンでもある。これが作品の主題にも通じている。
宇宙の壮大さに比べて、自分自身の存在が卑小であることを悟る。これ自体も虚無なのだが、それでも「優しく」、そのような卑小な存在にも「優しく」というのがウェイモンドの考えだ。母と娘は同じ境地に達しようとしたのだが、夫の意見、考え、やり方も受け容れることで、母は虚無に陥ることを回避し包摂に至るのだった。
訳の分からない要素は何もない、何も感動する要素もない映画でありながら、なぜか涙してしまう、本当にカオスな作品だった。