Technically Impossible

Lets look at the weak link in your statement. Anything "Technically Impossible" basically means we haven't figured out how yet.

君たちはどう生きるか

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IMAX版『君たちはどう生きるか』の鑑賞は、海、そして雲の描写の出色さ故に、西洋画の世界に没入するような体験だった。CGによる立体塗り絵のようなアニメとは異なり、筆致が伝わるような手描きアニメーションの描写と動きを堪能するのは、IMAXならではの体験だった。

これまでのジブリ作品と異なり、この作品は次の特徴がある。

  • 宣伝、予告編無し
  • 夢、あるいはオムニバスを繋いだ様な脈絡のなさ
  • 「おしまい」「おわり」がない

宣伝、予告編無し

まずジブリ作品として以上に、前例が限られているのが宣伝、予告編無しで封切られたことだろう。観客の楽しみを増やす仕掛け、そのための秘密主義と伝え聞くが、同時に宮崎駿を庇うような側面もあったのではないかと邪推している。それは晩年の作品に、あまり評判の良くないものが紛れ込むことで、これまで築き上げたキャリアに傷をつけるリスクを緩和するためだ。

参入障壁を下げ、無用にリーチを広げることで、招かれざる客にまで届いてしまうことがある。彼らの参入によって、不本意な評価、評判が生じるリスクだ。暗黙に共有されるべき背景や前提、文脈、さらには作品理解、解釈の裏付けとなる知識、見識に欠けることで、好意的に解釈されず、見当はずれの評判に通じることがある。現在のインターネット環境、ネット上の諸々、特にTwitterはその好例だろう。

夢、あるいはオムニバスを繋いだ様な脈絡のなさ

実際、映画『君たちはどう生きるか』は、夢を見ているかのような脈絡のなさ、例えば黒澤明の『夢』のようなオムニバス形式を、なんとか無理やり一つのストーリーに仕立てたような印象があるのだ。何も考えず、ただ受け身で楽しむには無理がある構成だ。
あるいは宮崎駿のミリタリー趣味だけで構成されたイラストエッセイ『宮崎駿の雑想ノート*1のファンタジー、美術版とでもいうべき、情報の詰込み具合は、宮崎駿が影響を受けたであろう諸々を連想、想像できそうな程度の理解が暗黙に求められているような気もした。
実際のモチーフに整合しているかはともかくとして、キリコ的な柱と広間、マグリット的な岩、諸々の西洋画で描かれたような雲や水辺などなど。

「おしまい」「おわり」がない

ジブリ作品でも、特に宮崎駿監督作品は「おわり」、あるいは「おしまい」で締めくくるのだがだ、この作品にはそれがない。それは作品の結末が現時点までも続いていることを暗示しているのかもしれない。
例えば、この作品自体を、母が主人公に残した一冊である『君たちはどう生きるか』に対する回答だとすれば、

実母「君はどう生きるか」
眞人「母さん、僕はこう生きています」

ということなのだろう。実際、主題歌「地球儀」の歌詞は、「僕が愛したあの人」=母を思いながら、

飽き足らず思いはせる 地球儀を回すように
飽き足らず描いていく 地球儀を回すように

という内容だ。

眞人=宮崎駿とするならば、まだ存命であると同時に、まさに歌詞が示すように「飽き足らず思いはせる 飽き足らず描いていく」真っ最中であり、終幕後も現在進行形ということだ。
引退作品ともいわれる作品であるが、年齢云々は置いて、おそらく本人にその意思はないのではないだろうか。

しかし、このような読み解きは作者の意図、本音を無視し、現代国語の問題に訳知りで回答するような野暮ったさがある。本音を隠したいような恥ずかしさの一面もあるのだろうが、実際、宮崎駿本人がいうように、当の本人が理解していないのだから。*2

おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました。

この発言を汲み取るならば、「こんな夢を見た」、あるいはやはり「雑想」ということなのだろう。

余談

ドア番号132

一二三を「ひふみ」と読むならば、ドア番号132は「ヒミ2」あるいは「ひみつ(秘密)」だろうか。

キリコの船

80~90年代、関西での夏休みと言えば『未来少年コナン』だ。朝10時半ごろに放送されていた。コナンとラナが乗るボートが波間を兼ね抜ける、爽快で躍動感のあるオープニングが、まさに夏休みを象徴していたようで印象に残っている。キリコの船のシーンは、そのハイエンド版のような印象だった。
何も心揺さぶられるシーンではないのだが、思わず涙が出た。