なぜか怪談は夏の風物詩だ。それが転じてなのか「幽霊」は夏の季語に採用されている。しかし視界を日本から世界へ広げれば、いわゆるホラー作品が夏の風物詩的な存在とは限らない。興行上の事情から夏に公開されることはあるかもしれないが、基本的にはオールシーズンだ。
そもそも怪談=ghost storyなのか、それを含めたhorror storyなのかは分からないが、それにニアミスするジャンルにモンスター映画がある。ドラキュラやフランケンシュタインはホラーかもしれないが、モンスター映画という異なるジャンルとみなすのが、私にとっては自然に感じる。そして『貞子vs伽椰子』にも同じ印象を感じたのだった。
ホラー映画ではなく、モンスター映画
日本のホラーには独特の雰囲気がある。そして『八つ墓村』をはじめとする金田一耕助シリーズのように、ホラーというジャンルに当てはまらない作品ですら、その印象を醸し出す作品があるように、ホラー映画でも、特に日本を舞台にしたホラー要素には、独自の気味悪さがある。
悪魔やモンスター、悪霊という具現的な存在ではなく、「怪異」とでも呼ぶべき抽象的な事象、環境の雰囲気や人物の内面、それらの印象を含む総体が醸し出す気味悪さだ。
この作品から、そのような要素を感じることは全くなかった。ただ何も考えず、ただ続きだけを気にして、素直に楽しく鑑賞できる作品だった。おそらく娯楽に徹して作られたのだろう。作品の構成が、ホラーというよりもモンスター映画なのだ。それも「ゴジラ対~」的な対決の結末を期待させるような類のクロスオーバー作品だ。
まさに予告編で霊能者ケイゾウが言う「化け物には化け物をぶつけるんだよ」が、それを如実に表現している。
呪いの領分
貞子の呪いはビデオを媒介として発動する。そのビデオ映像を見たものは呪われ、2日後に生命を絶たれる。オリジナルではビデオテープを媒介としているのだが、実際にはメディアを問わず、映像を観さえすれば有効なようだ。DVDでもよいし、インターネットにアップロードされた動画でもよい。
一方、加耶子の呪いは、その屋敷に侵入することで発動する。そして、これら二つの怪異には、それぞれの領分的なものがあるようだ。どちらかの呪いにかかった者は、その呪い主の獲物なのだ。だから両方の呪いにかかれば、両者はお互いの獲物を取り合うことになる。この特性を利用し、両者を共倒れさせることで解呪を試みるのだ。
融合は共倒れなのか?
ホラー作品に限らず、「vs」や「対」とついて決着がつくとは限らないのが、いわゆる「お約束」だ。引き分けに類するような幕引きになるのは典型例の一つだが、この作品の結末は、観客に解釈の余地を残しているのが面白い。端的には両者は融合しているのだ。
外見は貞子だが、ポーズと動作が伽椰子であることから、加耶子が貞子を乗っ取ったとみなせば、加耶子の勝利だろう。しかし、そもそもがコンピュータウイルスである貞子が、加耶子、俊雄を乗っ取った結果であるとみなせば、貞子の勝利という解釈もできる。
あるいは俊雄も含めて融合したのだから、貞子でも加耶子でもない第三の存在が誕生したのだとみなせば、それは引き分けというよりも共倒れに近いのではないだろうか。ただし本来意図していた、解呪を前提にした共倒れではないのだが。
呪い=感染、憑依=インストール~貞子というコンピュータウイルス、仮想世界的存在
この作品はクロスオーバーだが、貞子、加耶子それぞれの設定に深入りすることはない。それは、純粋に楽しんでもらうことを意図した、それぞれの出自とは独立した世界観でのクロスオーバー的試みなのかもしれない。
そのため、この作品に登場する貞子がシミュレーション世界におけるコンピュータウイルス的存在であるのかは分からない。その前提を継承しているとすれば、作品世界はシミュレーション世界であり、たとえ怪異の存在であっても、伽椰子、俊雄ですら貞子に感染される(呪われる)存在であるはずだ。
そして、貞子の強いキャラクター性はここにある。この作品に限らず興味深いのは、この特性を活かしたような、貞子の感染(呪い)プロセスだ。
- ビデオ映像を観る
- 電話が鳴る→受話器を取る
- 通信音を聞く
1はあくまでも呪い発動のトリガーであり、3で呪い(感染)が完了するとすれば、それはモデムや音響カプラー越しにデータ通信しているような、あるいは『MATRIX』シリーズでエージェント・スミスが仮想世界から現実世界へ転移したのと同じような仕掛けを連想させる。それは貞子の「インストール」であり、つまり憑依だ。
気が付いたら思いを馳せ、このような考察妄想に至るほどに、貞子のキャラクター性は強く、際立っている。加耶子には、ここまでのキャラクター性はない。あるいは、これが貞子の呪いなのかもしれない。だとすれば「vs」の決着は、作品以前に貞子のものなのだ。