映画『ガルム・ウォーズ』は、『攻殻機動隊』的な軍事、サイバー要素を多分に取り込んだSFファンタジー作品だ。特徴的なのは、
- 男性、女性が異なる種族として対立している世界
- それぞれの身体はサイボーグ化された義体である
- 固有の経験がコピー、平準化されたクローン、個性がない
争っている理由以前に、それぞれの存在理由すらも分からない、という世界観だ。劇中の成行から、その理由を求めて伝説の聖地を目指す、というのが筋書きだ。
押井守作品なので、その結末がストレートに示されることはない。そればかりか、この作品に限って言えば、結論を示す気がない、場合によっては結末など考えていない可能性もありそうに締めくくるのだ。
そしてプロデューサーの鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』との関連について言及*1するのだから、全く訳が分からない。
しかし今回、同作品の原作に相当するのか、続編なのか分からない小説『ガルム・ウォーズ 白銀の審問艦』を読んで辿り着いたのは、確かに『風の谷のナウシカ』(コミック版)に通じるものがある、という私なりの解釈だった。
映画『ガルム・ウォーズ』
映画『アヴァロン』*2の冒頭の演出は見事だった。飛び散る戦車の爆炎を、カメラが回り込むように撮影すると、それが走査線映像を有した平坦な板(2D)であることを示しながら、その前に立体映像的(3D)に伝送された主人公を登場させる。これで観客は一気に惹きつけられるのだ。
映画『ガルム・ウォーズ』も視覚的表現は見事ではあるものの、『アヴァロン』ほどに観客を引き付ける様な新規性は感じられなかった。
同時に、これは押井守監督独特の作風なのだろうが、幕間代わりのイメージ映像を挟んで、後半のストーリが展開される。そして物語が進むほどに映像は陳腐になっていく。実写+CG表現による「いつもの」押井アニメを脱すものではなかった。
後半のダレる展開は、まだ予想の範囲内なのだが、これがはっきりと明示しない、あるいは示しきれない結末、さらに言えば隠そうとする意図があるのか、まともに表現する気がないのか、疑念が生じるような演出があれば、それは観客にとってはストレスとなる。
その典型は、物語の結末、決定的な一言を口にするその瞬間、そのセリフがあえて聴き取りにくくするかのような演出だ。それは口にしてはならない神の名であるため、
- 口にしたくてもできない
- そもそも発音できない
といったことを表現する意図があるのかもしれない。映画をそのまま文字起こししたかのように、小説では次のように表現されている。
『彼らの名は……』
~中略~
発音すら定かでないその名は、恐ろしく異質で邪悪な存在を感じさせた。
『その名の意味するところは”妬み”……彼らは妬む神なれば』
結局、その名が小説でも明らかにされることはないのだが、その考察材料は提供される。それが漫画『風の谷のナウシカ』の見解に通じていた。
小説『ガルム・ウォーズ』
映画『ガルム・ウォーズ』の原作に相当するのか、続編なのかは分からないが、時系列的には映画よりも後のエピソードを描いているようだ。空の種族(女性)と陸の種族(男性)が共同戦線を形成し、謎の敵と対峙している。
原作に相当するのかも、と解釈できるのは、背景と成行、細部に違いはあれ、物語の本質は映画と相似していることだ。クローンたちの物語なのだから、映画も小説もクローン的なのかもしれない。
またこれは押井守の作家性、趣味性や志向なのかもしれないが、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』、『イノセンス』*3で見せたような意識と記憶の入れ子構造、も「馬鹿正直」に取り入れている。表現上の仕掛け、トリックも兼ねて、同じ文章が章を隔てて繰り返し登場するのだ。
映画は世界観を視覚的に表現しようとするが、小説は文章で表現する。そのためか、舞台と種族、その歴史、距離や時間などの単位まで、巻末の用語辞典に掲載されている。物語の細部はそれらの用語、表現を用いて表現される。
一見、かなり精密に世界観が定義されているように感じられるのだが、かなり見掛け倒しでもある。単位表現はメートル法などの日常的な単位を別の言葉に置き換えただけ、数字も10進法そのままだ。この辺は、クローンと造物主との相似、あるいは読者と物語世界のクローン的相似表現が意図されているのかもしれない。
そのような相似性、繰り返しも含めて、様々な情報が提示される中で注意を引いたのが、次の表現だった。
”セル”は実体化によって破壊を繰り広げるだけでなく、大地を草も生えぬ荒野に変え、大気の組成をも生物の生存に適さぬものへ変化させる。
”セル”の嚮導艦が墜落した爆心地はなぜか植物が急速に繁茂し、伝説の聖地”ドゥアル・グルンド”のような森林を形成していた。
考察:漫画『風の谷のナウシカ』との相似
『~ナウシカ』では、腐海による世界の浄化完了まで、旧人類は眠りにつき、活動再開まで世界をメンテナンスするために新人類(ナウシカ達)を残すのだった。新人類は人造人間であり、浄化された世界では生存できない仕様だった。そして旧人類の活動再開に際し、交代すべき存在なのだ。
『ガルム~』では、人類と思われる存在がガルムを創造したが、ガルムを月へ残し、人類は地球へ引き上げた。そして、人類と思われる存在が月を緑化しようとしている。同時に、ガルムたちも一掃しようとしている。
この引き上げた理由、一掃しようとしている理由が「妬み」に通じている。それが次の表現に表れている。
ガルムが全てを名付け、支配するさまを見た彼らはガルムを捨て、この星を去った……彼らはガルムを恐れていたのだ。
おそらくガルムが人類を超越する存在へと変わる兆し、シンギュラリティ的な何かが生じたのだろう。だから人類はガルムを
- 生殖できないようにした
- 世界創造に関わる想像を禁じた
- 技術革新できず、現状維持に特化させる
- 中央集権的組織を作る才能、結合意識を持たない
結果、ガルムたちはクローンによって自らの存在を繋いでいくしかなく、部族統合もできないでいる。
ナウシカ達は、旧人類を滅ぼし、目前に迫る世界浄化による滅びを受け容れる。ガルムたちの敵は宇宙を隔てた先にあり、それを滅ぼすことができない。しかし戦いそのものは生来受け容れているものであり、その目的とは、人類を打倒することではなく、敵の正体=人類を知ることなのだ。
無意味な死を繰り返すことに耐えることはできない。
一度気も姿をとどめぬ怪物などではなく、それを操る真の敵の姿を知りたい。
敵の正体と言わず、その姿を知ることさえできるならすべてを喪っても悔いない
とにかく、やり遂げなければならないのか、理由や根拠さえ分かれば結果はどうでも良いのか。この違いは作品というよりも、宮崎駿と押井守の本質的な違いを反映しているのかもしれない。
余談
世界観を担保するために、あえて独自の設定、表現で描写する意図は理解できるのだが、ただそのような固有、独自情報の羅列は、読者に何かを伝えよう、理解してもらおうという意思を全く感じない。読み手のことは何も考えず、ただ筆者の描きたいことだけを文字として綴り、出力しただけの作品のように思える。