先週、観に出かける予定でいたのだが、降雪のために断念した。そもそも公開劇場数の少なさが、何かを物語ってはいないか?という疑念もあり、あえてスクリーンで見る必然性もなく、そのうちレンタルで観ればよい、と思い直したのだが、小春日和な天候に影響されて、劇場へ足を運んでしまった。
過去にサブプライムローン危機を扱った映画が2作あった。『マネー・ショート』と『マージン・コール』だ。前者は、サブプライムローン危機の真っ只中での空売りを群像劇として、後者は、いわゆるリーマン・ショックを社内の視点で描写した作品だ。どちらも世界的金融危機を取り上げているのに対して、『ダム・マネー』は、GameStop株の空売りと踏み上げという、インターネットでつながった個人投資家集団であるロビンフッダーと、ヘッジファンドの仕手戦を題材としている。
『ダム・マネー』が取り上げる金融活動は、単なる空売りと、その踏み上げの構図なので、とてもシンプルだ。『マネー・ショート』が扱ったサブプライムローン、不動産担保証券とそれらの連鎖に比べて、何も複雑なことはなく、劇中でその活動が説明されることもない。
ゲームストップ株の買い煽りから公聴会召喚まで、ロビンフッドによる買い注文制限のエピソードも交え、当時のニュースの流れに即した物語も、同様にシンプルだ。
新型コロナ流行によるロックアップ期間中のニュースでもあり、その背景には
- 給付金を元手にしたトレードが流行ったこと→ミーム株取引
- エッセンシャル・ワーカーの低賃金労働、構造的経済格差
- ゲームストップに対する思い入れ
このような事情があったことについて「お飾り」程度に触れられはするものの、結果として、映画としての印象はとても薄く、ただニュースを映画として再現しただけの、メッセージ性の弱い内容だった。
ロビンフッダーとゲームストップへの思い入れ
ロビンフッダーそのものが軽い存在であることに合わせるがごとく、その劇中表現も軽く、薄っぺらで、さらに的外れだった。何も印象に残ることのなかった理由の一つがこれだ。
前述したように、作品内の舞台は、新型コロナ流行によるロックアップ期間中だ。現在の世界的インフレの一因である給付金が支給され、それを元手に株式投資を始める人たちが現れた。彼らが利用するのは、スマートフォンで取引できる、手数料無料の証券取引企業ロビンフッドだ。そのような彼らはロビンフッダーと呼ばれた。
現在、米国株式指数を牽引している、いわゆるGAFAMは巣ごもり消費の主役銘柄でもあり、それらの価格は当時から高騰していた。ロビンフッダーは割安銘柄に目を向けざるを得なかった事情がある。
ゲームストップ社は、そのような割安銘柄の一つではあったのだが、主体となる店舗販売、オンライン・ビジネスの不振など、トレンドに乗り切れていないことからヘッジファンドに目を付けられ、空売りされていた。
ゲームストップ社はビデオゲーム販売の小売店を主体とする企業だ。オタク向けトイ、アパレルを取り扱うThinkGeekなど、多角的に運営していた一面もあったのだが、基本的には店舗販売が主体であり、ダウンロード販売が主流となった当時にして、既に巣ごもり消費の主役ではなかった。
主人公は、ゲームストップの事業を株式市場は過小評価している、というのだが空売りはともかくとしても、時流に乗っていなかったのは事実なのだ。
ロビンフッダーの中には、このゲームストップに思い入れを抱えている者がおり、同社は不当に空売りされている、自分たちがゲームストップを守らなければ、と考えたようだ。そのような人物を象徴しているのが、劇中のゲームストップ店員だ。
しかし劇中で表現されるのは、利幅の高い中古品販売を販売推奨するよう指示されても、自身のゲーム愛から新品販売を断行するなど、ゲームストップ愛とは異なる偏向なのだった。
ロビンフッダーの中には学生ローンを抱えた大学生、エッセンシャル・ワーカーも含まれていた。構造的な経済格差、労務の社会的意義に比して、相対的に極端な低賃金を強いられている者たちだ。そのような背景から、彼らは富裕層に対するルサンチマンを抱えており、自分自身の金儲けよりも、富裕層を破綻させることを動機として、仕手戦に参じるのだった。彼らにとっては、空売りされるゲームストップ社のことなどは、どうでもよいことなのだ。
映画は、このような事情に触れはするものの、それをセリフ一言で語らせるような軽い扱いであり、何かを印象付けるものではなかった。結果として、作品そのものの印象までも、軽く、薄っぺらいものにしてしまった。
ロビンフッドの売買停止、取引手数料無料のからくり
映画は、主人公をはじめとするロビンフッダー達に焦点を当てる一方、ヘッジファンドとロビンフッドにはほとんど注目しない。彼らを批判、糾弾するような姿勢でもなく、実は作り手が理解できていないのでは?と疑念が湧いてくるような扱われようだった。
劇中、物語の転換点となるのが、ロビンフッドの売買停止エピソードだ。やはり作品での取り上げ方は軽く、薄っぺらい。加えて、取引手数料無料を追求する場面は繰り返し挿入されるものの、その仕掛けについては全く語られないのだ。
証券会社は買い注文を受け付けるに際し、売買が確実に履行されるよう、株式そのもの、あるいはそれに応じた金融資産を担保しなければならない。ゲームストップ株が注文されれば、その注文に応じた現物株、あるいはそれに相当する資産を担保しなければならない。注文が増え続ければ、その預託金を積み増さなければならない。積み増しが追い付かない間、売買停止すればよかったものを、制限が限定的であったために問題が生じた。
- 買い注文だけを制限した
- 個人投資家の取引だけを制限した
結果として、ヘッジファンドは自由に取引できる一方、ロビンフッダーを含む個人投資家は「売り」しかできない、ヘッジファンドの空売りを有利にする状況を作り出してしまった。
オカシオ・コルテス議員が、手数料無料について追及する場面は繰り返し挿入されるのだが、その仕掛けが説明、披露されることは一度もなかった。
個人投資家の手数料を無料にする代わりに、ロビンフッドが収益源としていたのは、個人投資家の注文情報を顧客へ提供することによるリベートであり、この事実を伏せながら「手数料無料」をアピールしていた。
Googleが無料で利用できる代わりに、個人情報が筒抜けとなり、その情報はGoogleによってビジネス活用されるのと同じ構図だ。本題の趣旨から外れると解釈されたのか、なぜか映画はこのことについて、何も語らないのだった。
それは本当に革命なのか?
ゲームストップ株騒動は、結託した個人投資家がヘッジファンドを圧倒した事例として、株式市場におけるフランス革命的な解釈をされることがある。実際、ヘッジファンドは損害を被り、中には閉鎖した機関もある。
ロビンフッダー達の背景、動機、思惑は人ぞれぞれであったとしても、主人公の買い煽りが、ロビンフッダー達の買い注文につながる過程は、株価操作の共謀とみなされるリスクがある。つまり犯罪だ。
本来、証券会社は売買において中立であるものだ。しかしロビンフッドのビジネスモデルは、中立に機能するだろうか。手数料無料という点においては個人投資家に有利である一方、その手口は高速取引業者に筒抜けなのだ。
そもそも市場に投下できる資本は参加者それぞれに異なるものだし、その資本を捻出できる背景まで考えれば、市場そのものが不平等な環境だ。巨額の資本を背景としたヘッジファンドは、相対的に市場での影響力も大きい。その資本を背景に、必要以上の空売りを仕掛けることができる。その活動によって合理的ではない価格を形成することができ、その結果が不平等な環境をも生じさせる。
ロビンフッドの備えた不利を加味してなお、ロビンフッダーがヘッジファンドに打ち勝つことのできた事実は、確かに革命的ではある。とはいえ、たまたま1度、ヘッジファンドを圧倒できただけであり、その結果として何かが改善されたわけではないのだ。このようなことまで含めて、軽々と「革命」などと呼んでよいものだろうか。
この作品は、このような点について何も総括することはなく締めくくる。いわゆる「まとめ」を体の良い映画に仕立てたような印象だった。