ぼっち・ざ・ろっく!
先週、有酸素運動中に観ていたのがアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』だった。昨日の運動中に最終回を観終えた。印象的な演出があり、昨晩の日記に認めたところだった。とても清々しい印象の作品だった。
ちょうど昨晩はアニメ放送開始1周年であると同時に、劇場総集編を来年公開するという発表の日でもあった。*1*2全くの偶然なのだが、奇縁に感じて、昨晩の文章を独立した投稿に仕立てることにした。
『けいおん!』との違い
女子高生のバンド活動を題材にしたアニメに『けいおん!』*3がある。同様にバンド活動を題材としていながら、主題は全く異なっている。『けいおん!』は、学園生活の一部としての軽音楽部の活動を主軸に、バンド・メンバーたちに日常を描くストーリーであった。
対して『ぼっち~』は、一般観客を相手にするライブ・パフォーマンスを前提としたバンド活動を題材に、いわゆる陰キャである主人公と、バンドの成長を描いた作品だ。
陰キャであること、キターの名手であること、人としての成長
観客と登場人物の性別の違いは置いて、特に主人公が陰キャであることから、感情移入を誘うような描写、ストーリー上の仕掛けはない。ただ特徴的なのは、その描写を含めた表現方法にある。客観性と主観性の混在だ。
観客は主人公たちを見守るような視点から、客観的に描かれた映像を目にする。主人公の陰キャらしさは、その映像で赤裸々に描かれるのだが、そこには陰キャとしての本質は描かれていない。その本質が端的に表現されているのが、主人公の主観を反映した独白だ。
主人公は、周囲の登場人物たちの思惑について、その真意を確認することなく、独自に解釈する。それは多分に主人公の自嘲、自虐傾向を反映しており、決してポジティブなものではない。いうなれば妄想であり、ネガティブな結果を想定、前提としたシミュレーションの結論でもある。
たとえ対話を通じたところで、真実が口にされるとは限らないのだが、いわゆるコミュ障である主人公は、その対話の口火を開くことすらできないのだ。
同時に、特に音楽表現を通じた現場では、その妄想は冴えた感性と観察眼を通じた、的確な現実認識に転じる。抑鬱リアリズム理論*4だ。それが時に主人公を奮起させるトリガーとなり、主人公を成長させるきっかけにも通じる仕掛けだ。
そもそも主人公はギターの名手であり、ギターの上達についての「成長」余地は少ない。それが劇中のパフォーマンスに反映されるのはわかりやすい構成だが、ギター・パフォーマンス後に表現される「人として」の成長が、作品の本旨に通じている。
アニメならではの演出、清々しさ
『ぼっち・ざ・ろっく!』の原作は4コマ漫画なのだという。私は原作は未見だが、4コマのストーリを積み重ねることで、同じストーリーが、アニメでも違わず再構成されているのだろう。しかし、たとえストーリーに違いがないとはいえ、アニメとしての映像表現がもたらす演出、それが残す印象は、4コマを通じた印象を超えているのではないかと思う。それが端的に表れていたのが8話終盤だった。
台風上陸の当日、ライブハウスで初めてのライブ・パフォーマンスを経験した主人公たちは、打ち上げで親睦を深める。そのさなか、店の外でバンド・リーダーが主人公に語るのは、
・いつも主人公が危機を救ってくれること
・主人公がギターの名手(ギター・ヒーロー)であること
・バンドを通じて実現したい夢
『ぼっち・ざ・ろっく!』とは、主人公とバンドの成長を描く、このようなストーリーの作品であることを端的に表すエピソードであると同時に、台風一過の夜の空気感と相まって、透き通ったような清々しさを感じさせる場面だ。
そこで突然挿入される「ぼっち・ざ・ろっく!」のロゴ、スタッフ・ロールとエンディング・テーマが流れる展開が素晴らしかった。あたかもその瞬間を凍結、保存するかのような演出は、余計な余韻も感傷を紛れさせることなく、その場面だけを明瞭、鮮明に印象付けた。これは4コマ漫画では実現できない、アニメならではの表現だろう。
ライブ終了からエンディングへ繋がる同様の展開は最終回でも繰り返される。主人公はいつも通り学校に出かける。スタッフ・ロールに重なるように描写されるのは、朝日を浴びる始業前の校舎内、街の風景だ。そして主人公がつぶやく「今日もバイトかぁ」は、作品としての締めくくりに余韻を残す演出だ。
陰キャらしくはあるものの、どちらも清々しさが素晴らしい。