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「タイパ」とはタイム・パフォーマンスの略称で、この記事で言うところの「若者」はタイパ至上主義者なのだという。具体的には、
- 回り道、効率の悪いことを恐れる。
- 失敗、外れを恐れる。
- 無駄なことに時間を割くのを恐れる。
それを醸成したのはキャリア教育と、常に周りと比較するSNSなのだという。
そして、それを「最近の若者は~」的に批判できる世代が若かった頃、キャリア教育もSNSもなかっただろう、と締めくくっている。記事には、それなりに説得力を感じはするのだが、個人的には別の観点から、
- それは「若者」に限らず、当たり前
- 「若者」への突っ込みどころ
など、色々と思い浮かんでくることがあるのだった。
「手っ取り早く」は日本人の傾向
まず若者が倍速視聴で、「手っ取り早く」本数をこなすという。このように、作品どころか人間相手にすら、上辺だけの浅い情報、いわゆる「ラベル」で手っ取り早く判断するのは、昔から日本人が実践していることだ。若者に限った話ではない。その「ラベル」とは、
- 大学や企業などの所属組織
- 昭和生まれ、氷河期、ゆとりなどの世代
- 家族構成、就労、年収などの境遇
などなど、
なるべく効率よく対処していくために、若者は「観ておくべき(読んでおくべき)重要作品を、リストにして教えてほしい」と言うのだそうだ。似たようなことを、「若者」ではない人たちも日々、実践しているではないか。例えば新卒採用の就職活動と、リクルート社が提供しているサービスだ。
- 採用すべき大学をリストにして教えて欲しい
- 採用すべき学部生をリストにして教えて欲しい
若者が問うているのと同じことを、企業の人事部はリクルート社をはじめとする、就職活動支援、そのアウトソースを売りにする企業に依頼しているし、さらに面接の段階でも、似たような質問を繰り返して選考している。
決して「若者」のことを笑えないどころか、採用の場に限らず、賃貸の申し込みであったり、クレジットカード発行やローン審査、婚活などなど、日本中のあちこち、様々な状況で、本質的には同じことが繰り返されている。
いずれも「外したくない」し、「失敗したくない」ことを目的にしているではないか。それは「若者」に限った傾向ではなく、極端にリスク、不確実性を嫌いながらも、確立統計的に正しいかはさておき、とりあえず世間一般で流通している「ラベル」によって<手っ取り早く>選好している。そのような日本人特有の傾向が現れているに過ぎない。
もっと言えば、「手っ取り早く」どころか、丸投げ、責任放棄に等しいことも平気なのが、そのような人たちだ。誠実そうなことを口にしながら、実際にやっていることがコレなのだから。自分自身では本質的なことに何も手を出さず、結果だけが欲しい、ということだ。
impsbl.hatenablog.jp
「若者」への突っ込みどころ
記事では、そのような行動傾向の目的として、森永真弓氏(博報堂DYメディアパートナーズ メディア研究所)は”「スペック」の獲得”だと分析する。要は、やることをやってしまえば、ゲームのスキルやアビリティ的な、何らかの属性要素が獲得できる(ことになっている)のだ。
ある知識を獲得するために、それについて調べ、考え、教えられる学習過程を経るのではなく、「この1冊で、ことの本質を言い切った系の本」を一読して、本質を掴んでいる(ことにしている)というわけだ。
実際のところ、このブログの参照傾向を眺めていても、そのような特性を印象付けられることがある。Microsoft Clarityを眺めていると、次の傾向が散見される。
- 出典リンクがあるのに、参照しようとしない。
- 順番に説明しているのに、上から通して読まずに、上下を行きつ戻りつする。
- 投稿の冒頭に、見出しごとの目次を掲載しているのに…
- キーワードがあるのならば、ブラウザ内検索を用いればよいのに…
- コードに直行し、クリックを繰り返す。
- 1行ずつコピー&ペーストを繰り返しているようだ。末尾にコード全文を掲載しているのに…
などなど
このブログの読者は、いわゆるサラリーマンや学生が多い。アクセス元を参照すると、会社や大学のネットワークからの接続が多いからだ。おそらく、彼らは明確に目的とする情報を求めてこのブログを参照しているだろうことを考えると、きっとその情報を「理解」するのではなく、端的には何らかの「回答」、「正解」を求めているのだろう。
このブログの読者が「若者」とは限らないのだが、結局のところ、この傾向も「若者」に限ったことではないのだと思う。分析では”「スペック」の獲得”というのだが、実際のところは効率的に目の前の課題をこなせれば、何でもよい、ということではないのだろうか。やはり自分で調べる、考えることなしに、何らかの答えを得たいということなのだろう。
結局、浅はかなのは「若者」だけではない
当事者たちは何かを獲得した気になっているのかもしれないが、実際には何も獲得できていないのだから、浅はかと言う他ない。
記事では4回連載で、「若者」について語っているのだが、こと「効率」に関して言えば、それを気にするだけまともになった方ではないか、と私は思う。身についているか、学習効果を上げているかはともかくとして、「効率」を意識するほどの何かには取り組んでいるのだから。
80年代ごろまでの、いわゆるバブル世代の大学生は、「効率」を意識するほど何かに取り組んでいるどころか、大学は単なる遊び場だったではないか。加えて言えば、バブル全盛で就職のハードルなど存在しないも同然の時代だっただろう。そのような時代に就職した人たちが、浅い情報に基づいて意思決定をし、人間を選別できる立場にいるのが現状だ。
さらに付け加えれば、その時代以前の人たちは、デジタル弱者になるほど、時代にキャッチアップする程度の学習能力もないのだ。その程度でも生活を謳歌できているのだから、ある意味ではコスパ、タイパは良好なのだ。事実上、何の努力をしていなくても、現在の水準にタダ乗りできているのだから。
誰が「若者」を説教、憐れむことができるだろう。