本書でいうところの「バカ」とは、特定の部類に該当する人たちを指しているのではない。誰もが陥る可能性のある状態、その振る舞いや態度を指している。そのような「バカ」に関する論考集だ。
論考集なので、体形的なまとまりに欠けている。前提知識についての説明、考え方、特にバイアスと、それを生じさせる特性について重複して説明されたり、多忙が予想される超有名人については、対談インタビューの文字起こしに終始したりなど。
論考で取り上げられ話題の中心は、
- 「バカ」そのものについての考察
- 「バカ」な行動が生じる仕組み
さらに関連する話題として、インターネット、特にTwitterをはじめとするソーシャルネットワークと、そこで言及、拡散される情報について言及されている。
出色なのは、言葉についての考察している「バカのことば」という論考だった。端的には、言葉が本来通りに機能していないばかりか、発せられる言葉が字義通りに解釈されることすら、意図されていないことについて述べられていた。
「luxe」という言葉
論考で取り上げられるのはフェイクニュースであったり、SNS上のいわゆる「煽り」なのだが、言葉が機能していないのは、それら以前に私も意識していたことだった。それは女性誌で用いられる表現「luxe」を目にした時からだ。
「luxe」とは英語、フランス語の名詞で、華美ではない豪華、優雅を表している。しかし、それらを表現したいならば、率直に豪華、優雅、あるいは上品といった言葉を用いればよいはずなのだが、なぜか女性誌はそのようにしない。
しかも、ここで用いられているのはフランス語の「luxe」であり、英語ではない。なぜそう分かるかと言えば、英語の「luxe」に相当する言葉として「luxury」を用いているからだ。そもそも「luxury」は形容詞なのだが、彼らはそれを形容詞としても、名詞としても用いる。
女性誌なりの何らかの意図によって、「luxe」と「luxury」を使い分けている。ただ豪華、優雅、あるいは上品といった表現に、何らかの意図したニュアンスを付加した情報を一言で表現したい、そしてそれは「luxury」とは異なるニュアンスを持つ、そのような意図で「luxe」を用いたとして、そのニュアンスや意図は何であるかを、女性誌は一切説明しない。
そもそも発信者の意図するニュアンス、真意があり、それを表現し、伝えるための言葉を発信者は選んでいるはずなのだ。しかし何の説明もなく、そのニュアンスや真意が伝わると、発信者は考えているのだろうか。だとすれば、その根拠は?何が、その情報伝達を保証しているのか?
そのようなニュアンス、意図が伝わる保証もないのに、女性誌読者をはじめとする、その「luxe」を受け取った人達は、そこに秘められたニュアンスや意図を、どのように理解、解釈しているのだろうか。
不思議なことに、そのニュアンスや真意が共有されているはずもないのに、なぜか受信者までもが「luxe」を使い始めるのだ。もはや、この「luxe」は言葉として機能していない。そして、この「luxe」はまさにバカの言葉であり、この現象はまさに、論考「バカのことば」で言及されていることに通じている。
バカのことば
論考「バカのことば」では、人間の知性は主に話し言葉に表れると言う。それは、よく考えられずに発せられる言葉だ。脳の高度な部位を使わず発せられる言葉であり、さらに次の特性を持っている。
- 真実を一切顧みない
- 字義通りの解釈を意図していない
- 真の意味よりも、「意義」が優先される
1~2では、出鱈目ではあれ、まだ「言葉」の体裁を保っているが、もはや言葉ではなくなっている。より厳密に表現するなら、言葉は何らかの指示対象と結びついており、それが言葉の意味、定義に通じている。「言葉」の体でありながら、それが指し示すもののない言葉は、本来、字義通りの言葉以外の何かと化する。なぜなら、発信者が暗に込めた意図、ニュアンスを含意するからだ。その結果、その「言葉」はそれ以外の何物でもない、それ自身を指し示すことになる。
3において、もはやそれは「言葉」ではなくなる。ある種のサインと化すのだ。例えば、そのサイン(言葉)を使う人は同類、同じグループの一員、仲間であり、使わない人はそうではない。
前述の「luxe」は、何らかの意図やニュアンスを伝える言葉ではなく、この女性誌読者とそれ以外を区別するサインだったのかもしれない。
少なくとも、このような言葉は「バカのことば」として取り上げられるような特別な存在ではなく、もうすでにソーシャルネットワーク以前の日常にあふれている。例えば、一部のITエンジニアが用いる「叩く」という言葉も、その典型だろう。「呼び出す」。「実行する」という言葉を用いればよいところを、なぜか「叩く」というのだ。
「コマンドを叩く」というのは、まだ理解できる。キーボードを叩いて、コマンドを入力し、実行するのだ。それを一言で表現しようとする、少なくともコマンドを入力している事は伝わる。しかしAPIや関数はどうだろうか。これらは英語で”function call”と表現される。あるいは”call a function”であり、それらは呼ばれるもの、呼び出されるものなのだ。
なぜ「叩く」?呼び出すのではなく。あえて「叩く」と表現することによって、呼ぶ以外のどのようなニュアンスを付与、表現し、伝えたいのか?私には、全く理解できない。つまり、これも「luxe」同様、同族、同類を示すサインであり、言葉ではないのだろう。
バカと非バカの非対称性
このようなサインとしての、言葉ならざる「言葉」が氾濫しているのが現在のインターネットであり、その主戦場がソーシャルネットワークだ。論考「バカとポスト真実」は、いわゆる拡散、それもバカげた情報の拡散に対処することが困難であることに触れている。フェイクニュースをはじめとする「ポスト真実」、つまりバカと、それに対抗し得る者たちの非対称性だ。
バカは大量生産可能だが、それを排除する能力と決意を持ったものは限られており、排除には相当な努力が必要とされる。
述べるべきことはただひとつの「真実」しかない。ところがバカは、バカな発言を大量にストックしている。真実がひとつしかないのに対して、愚かさはひとつではないからだ。バカは、効率よく、要領よく、コストをかけずに、あらゆることに対してバカな見解を表明する。すると、真実を伝える手段を備えた者たちも、大量のバカの発言にいちいち反論する時間が足りなくなってしまう。
あたかもインターネットがバカを生産、増殖、繁栄させることを後押しするかのように、それ自体の仕組みによって、バカの発言は拡散されていく。そのような事象の典型がTwitterや発言小町、Yahoo!知恵袋であり、はてな匿名ダイアリーや、はてなブックマークで繰り広げられている諸々だ。
余談:インターネット接続の参入障壁とバカ
このような非対称性を生じさせてしまった根本原因として、私が考えていることの一つは、インターネットの参入障壁が事実上、無効化されたことだ。90年代、インターネットに接続するにはPCにソフトウェアを導入し、設定することで実現できた。
インターネット接続前の状態なのだから、その方法をインターネット検索で知ることはできないし、そもそもGoogleに相当するものさえ存在しなかった。それが参入障壁として機能していた。しかし、今や誰でも、スマートフォンの電源を入れさえすれば「繋がる」ことができる。参入障壁は事実上、無効化され、「バカ」でも使えるテクノロジーとなった。
参入障壁が下がることで、それを利用するのにふさわしくない人たちにもリーチしてしまい、ついには環境そのものを劣化させてしまった。大量生産可能なバカが問題なのではなく、そのようなバカを易々と受け入れてしまったことが、根本的な原因と思うのだ。