これは2005年、2007年に以前のブログへ投稿したエントリーを統合、編集したものです。
『BABEL』という映画がある。タイトルのバベルに象徴される
- 言語が異なることによって、意思が思うように伝わらない。
- 偏見、思い込みによって粗暴になるコミュニケーション。
- そもそも言葉を介在させることのできないコミュニケーション。
- その結果として、当初の意志、意図に反した結果を誘発してしまう現実。
これらをモチーフとしたストーリーが観客に訴えかけるのは、
再び、ひとつにつながるには、どうすればよいのか?
永遠に分かり合うことができないのか?
おそらく製作者は、実現は困難であろうけれども「人々は分かりあうことができる」という前提において、言葉や偏見を超えた次のキャッチを設定したのだと思う。
届け心。
そもそも、言葉の相違というのは問題全体の一要素でしかない。本当に単一の共通言語だけを利用することで、そのような困難が解消されるのかといえば、それが無理であることを端的に示すエピソードが作中に挿入されている。
ブラッド・ピットと大使館、他の観光客とのやり取りであったり、ブラッド・ピットとケイト・ブランシェット夫婦、ナニーが遭遇するトラブルは、言葉の相違ではなく、お互いの思い込みや偏見に起因している。
そして現実を振り返ると、同じ日本語を話す者同士でさえ、同様のことが日常茶飯事に起こる。その集中多発地帯が、例えばビジネス活動で実施されるプロジェクト。そして、それを端的に示すのが次の画像だ。
想定と違うものが届けられた顧客からのクレーム、できもしないことを約束した営業の大風呂敷、ステークホルダー間のコミュニケーション不足など、実例を挙げだすとキリがない。
結局のところ、世の中の諸々というのは、そのような困難を乗り越えたコミュニケーションから生じる統一見解の帰結というよりも、ミス・コミュニケーションを繰り返した帰結ではないか、と思い至る。
単一言語しか存在しない世界だろうが、多様な言語が用いられる世界だろうが、そもそも論として、コミュニケーションそのものが困難なものであり、それは決して神話、バベルの塔の結末が象徴する結果により生じたものではなく、それ以前から常在の状況ではないのか、ということだ。
バベルの塔でさえもミス・コミュニケーションの積み重なった結果であり、さらには、それを見た神様が、人間の言葉をバラバラにしてしまうことすらも、バベルの塔の目的や意図を手前勝手に解釈し、読み違えた神様の、言うなれば偏見に基づいた意思決定によるものであり、人間同士のみならず、神様までをも巻き込んだミス・コミュニケーションの帰結である、とすら思えてくる。
ちなみにキャッチである「届け心。」は、
言葉が通じない。心も伝わらない。想いはどこにも届かない。
という状況を克服するための努力を表しているのだと解釈した。ここでいう心とは、作中では親子愛として取り上げられている。具体的なエピソードとしては、
- 異国の地より、自宅へ電話する父親。息子の話を聞いて涙する。
- トラブルの発端となった少年。逃避行のなか、父親をかばい投降する。
- 生まれたときから付き添ってきたナニー。世話をしている子供の生存を知り涙する。
- 強制送還されたナニーを受け入れる、実の息子の愛。
- 言葉を話せない娘。父親をかばうために、警察にウソを話す。
言葉も心も伝わらない世界では、最後には情に訴えるしかないのかもしれない。
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