テロも暴力も肯定しない。
それが民主主義への挑戦云々などという発信も信用しない。
結局、みんなで誰かを暴発させるチキンゲームをやっているようなものではないのか。
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事件に反応して、
- 民主主義の根幹をなす選挙に対する暴挙
- 民主主義の挑戦
- 暴力による弾圧
などなど、発信する人たちがいる。その言葉が意味することは理解できるが、発信者も含めて、その発言の本質、内容を全く信頼、信用することができない。一体、その人たちは、その大切な民主主義を守るために、蔑ろにすることのないよう、どれだけの努力をしているだろうか。努力を怠るどころか、何もしていないのが現実ではないか。
昨年7月の安倍晋三銃撃事件で明らかになったように、事件の背景には統一教会の問題があった。事件後、統一教会に関連のある人たちが排除されていった、そのきっかけを作ったのがこの事件だった。このようなきっかけがなければ行動できなかった人たちが、民主主義云々などと発信したところで、その実質的な内容は非常に空虚で、白々しさすら感じさせる。
統一教会問題に目を向けさせたからといって、テロも暴力も肯定しない。しかし、この問題に目を向けさせ、直ちに行動を起こさせるにあたって、他に有効な手立てがあったのかは分からない。正式に民主主義の手続きに則り、選挙を経たところで、その結果の一端が統一教会問題に通じているのだし、すでに選挙そのものにも統一教会の影響が及んでいたのだから。
そもそも「民主」主義自体が機能しているのかすら怪しい。挑戦されている、揺るがされている以前に、既に籠絡されて久しいのではないだろうか。
さらに市井の一個人、それも
- 資産
- 社会的地位
- 権力、影響力
一切の有効な手立てを持たない個人が、このような問題に目を向けさせ、社会を動かす手段があるだろうか。
そのような個人が政治家と接点を持つことはできないだろうし、仮にコンタクトしたところで、まともに取り合ってはくれないだろう。統一教会のような問題であれば、むしろその個人に敵対するリスクが増大することだろう。
政治家と言わず、社会に目を向けたとしても理屈は同じだ。むしろこちらの場合、自己責任論やリスク回避から、尚のこと煙たがられ、あるいは黙殺されるかもしれない。
そのような前提で、問題に目を向けさせ、直ちに行動を起こさせるには、社会的に注目する事件を起こす以外にないのではないだろうか。暴力、テロはその手段の一つだろう、それも有無を言わさず目を向けさせるための。
重ねて、暴力もテロも肯定しないが、だからとってそれ以外にどのような方法があったかと考えれば、他に方法はなかったのではないか。話題は少々異なるが、多数からの「小さなノーサンキュー」が重なって追い込まれる人たちがいる*1。
本質的には同じことではないだろうか。誰かを暴発させるためのチキンゲームのようなものだ。何かにつけ不特定多数に「ノーサンキュー」を示し続ける。閾値を超えた人から暴発し、何か事件を起こす。その中には安倍晋三銃撃事件や、今回のような事件に繋がることもある、ということではないだろうか。
誰かが暴発したところで、慌てて問題を特定し、「応急」的に対応する。そして次の問題解決まで、具体的な問題を明示することなく、ノーサンキューを示し続ける。誰かが暴発し、応急的に対応する、その繰り返しだ。