昨日に引き続き*1、意識のどこかを、旭川のいじめ自殺事件と、これまで見聞きした事柄との関連から派生した考えがチラつき、やはり集中に欠ける。昨晩、浮かんでくる事柄をできるだけ整理した形で文字にまとめたが、まだまだ書ききれていない事柄がある。
今晩も、まとまりがなくとも浮かんでくる事柄をまとめて吐き出しておくことにした。その後半だ。
加害者の親
今回の事件に限らず、加害者の親と言ったときに思い浮かぶ、典型的なパターンが3つある。最初の2つは、今回の事件に限らず、記事や関連する話題でいつも登場する例だ。
- 子供がそのようなことに関わっているはずがないと信じる。
- 子供がそのようなことに関わっていたとしても、相手に非がある、あるいは相手に「も」非がある。
親自身の良心、子供の行いから、親自身に何らかのやましい気持ちがあったとしても、子どもを守るのが親の務め、最後まで子供を信じられるのは親だけ、という想いから、以上のような考えを表明するのは、理屈としては理解できるのだ。
個人的にはもう一つ理解できるパターンがあるのだが、そのような親が登場した例を一つも知らない。一度だけ登場したのだが、それは今回のような事件ではなかった。元農水事務次官長男殺害事件だ。
事件の経緯はともかくとして、父親が息子を殺害した動機は、2つの懸念事項だった。
- 息子の家庭内暴力から、自分が殺されるかもしれないという懸念
- 息子の暴力が、家庭外にも及ぶかもしれないという懸念
- 川崎殺傷事件の影響
この父親の場合は、息子が実際に犯行に至るかどうかに関係なく、自らが犯行を犯すことになった。実際に犯行に至るかどうかわからないのに、殺害に及ぶ父親が存在するのだから、実際に犯行に及んだからには、世間に申し訳が立たないと、直ちに謝罪、さらには殺害にまで及ぶ親がいてもおかしくないと思うのだ。しかし、そのような親の存在が報道されたためしがない。
大抵の場合、報道されるのは加害者同様に「どうしようもない」親の発言や行動だ。
これは証明されたことではないのだが、
- 後天的な何か:そのような親が存在するから、子供もそのような存在となってしまう。
- 先天的な何か:そのような親が存在するから、そのような子供が誕生してしまう。
そのような存在を取り巻く、何か特定の環境要因、条件が揃うと、類似の事件が発生するのではないか、という発想してしまう。
そして、そのような事件の取扱いは、昨晩の投稿で触れた「法治」によって同様に処理され、同じようなことが繰り返される。
今回の事件が「令和版コンクリ事件」と表現されるように、非道な少年犯罪というのは繰り返されており、その処理から登場する親に至るまで、ほとんど変わりがない。先に挙げた第3のパターンに該当する親は一度も登場したことがない。
教員の長時間労働~親の劣化~社会の劣化
公立学校の教員は、ブラック的な長時間労働なのだという。実際その通りなのだと思うのだが、同時に不思議に思う事もある。
少子化の現代、最も児童数の多かった昭和の時代に比べて、児童数は減少し、単一クラスの生徒数も少ないはずなのだ。生徒数が減ったからと言って、授業数やクラブ時間がなくなるわけではなく、生徒数の多寡で教員の担当業務が減るわけではないのだが、管理対象の生徒数は減っているはずだ。昭和の時代に比べて、業務量は減っていても、おかしくないはずだと考える。
教員の問題以上に、注目すべき別の何かがあるのではないか。
優秀な生徒は私立学校へ進学し、質の悪い児童が公立学校に集められるため、管理負担が増加したのだとしよう。昭和の時代と比べて児童の質が劣化したのであれば、自然に思いつくのは、その親の質も劣化している、ということだ。端的には躾ができない人間が親になったということだ。
「躾ができない」と言っても、躾をする能力がない人間もいれば、十分な躾を施せる環境にいない人間もいるかもしれない。さらに考察を進めるならば、後者だ。昭和から現在に至る日本の社会事情が、そのような環境を作り出しているのかもしれない。端的には経済的にも、時間的にも子供に向き合う余裕がない、というところだろうか。
- 劣化した児童、その由来→両親
- 劣化した両親、その由来→
- 両親自身の特性
- 社会環境
- 劣化した社会環境、その由来→社会的変化の原因
突き詰めていけば、就職氷河期以降の社会情勢、それに合わせて変化した親となる人間たちのマインドの問題、そしてそのような状況を生み出した、あるいは促進させた政策などが思い浮かんでくる。