上映時間、3時間の大作とはいえ、約9か月遅れの日本公開に加えて、史実に基づいた伝記でもあり、事実上ネタバレ済みの作品だ。見くびっていたところがあった。ところが実際には、ノーラン作品特有の、いつも通りの仕掛けが施された、内容充実の作品だったことに加え、最終上映回であったこともあり、非常に体力を消耗させられた。
『TENET』では、作中のスタート時点を基準に、時間の順行、逆行を、ドップラー効果の赤方、青方偏移に象徴していた。つまりスタート地点から遠ざかる順行する時間での場面は赤色で、スタート地点へ近づく、逆行する時間の場面は青色で表現していた。そして映画の終盤には、スタート時点に通じる展開が用意されていた。
『メメント』、『ダンケルク』は、時系列のシャッフルだ。時系列を逆向きに辿り、過去との連続性から情報の整合性を構築し、根拠を見出したり、あえて時系列に沿わずにエピソードをつなげることによって、時系列に沿った一貫性を犠牲に、主題の表現が強化される。
このような時系列の編集と、構成の妙を取り入れて構築されている、そのほかのノーラン作品同様、『オッペンハイマー』にも同様の仕掛けが施されているのだった。
核分裂と核融合、結末からスタート時点へ→『TENET』との類似
『オッペンハイマー』は、「Fission」と題されたカラー映像のパート、「Fusion」と題された白黒映像のパートで構成されている。「Fission」とは核分裂のことであり、それが原爆のエネルギーを生み出す。そして「Fusion」は核融合であり、水爆のエネルギーを生み出す。
ここで留意しておきたいのは、原爆は水爆の起爆装置であり、原爆によって生じる核分裂を利用して、水爆の核融合を誘発する。そして、それぞれは連鎖反応であることだ。
つまり事の発端となる起爆装置=オッペンハイマーであり、「Fission」における彼の振る舞い、それによる諸々の影響の連鎖が「Fusion」につながる。そして、その影響は「Fusion」以降も連鎖していくことを示唆している。
結末において、この先も続いていく連鎖を示唆しながらも、作中の時間軸をスタート時点に戻すことによって、作品としての時間軸はループとして閉じられる。しかしスタート時点の視点を冒頭とは変化させることで、同じ時点に立ちながらも、全く異なる印象を与えることに成功している。
作品のスタート時点とは、プリンストン研究所でのアインシュタインとオッペンハイマーの対話場面だ。作中の時系列では「Fission」と「Fusion」の間に位置している。冒頭では、同研究所理事のストロースの視点で描写され、結末では、オッペンハイマーの視点で描写される。これによって、ループによって時間軸を完結させるだけなく、同じ場面でありながら、異なる解釈、印象を残す『羅生門』的な効果の醸成に成功している。
時系列のシャッフル→『メメント』、『ダンケルク』との類似
それらカラー・パート、白黒パートが入り乱れながら、ストーリーは進行する。ストーリーの目的は、彼の人生を時系列で紹介することではなく、オッペンハイマー自身を「表現」することなのだろう。
隔たれた時系列の出来事をまたぎながらも、オッペンハイマーという人物のキャラクターを特徴づけるエピソードを再配置することで、その人物像を効果的に浮き彫りにする。
いわゆるギフテッド的な才能ゆえに、不倫をはじめとする身勝手は許容されるという傲慢さ、確率論的なアプローチを許容できないアインシュタインを時代遅れと見なしながら、核融合のアプローチに乗り遅れ、加えて原爆を推進したにもかかわらず、水爆を推進できないどころか反対してしまう。
かつてオッペンハイマーがアインシュタインを表彰した時のことを、アインシュタインがオッペンハイマーに語るのは、次はお前が同じ目に遭う、ということなのだ。そして、その通りになったのがエンリコ・フェルミ賞の受賞場面だ。
劇中では語られないが、水爆の父であるエドワード・テラーは、オッペンハイマー受賞の前年に、同賞を受賞している。
毒リンゴ~連鎖反応→分かっていながら、何もできない。
劇中、何よりもオッペンハイマーという人物を象徴していたのが、物語冒頭の毒リンゴのエピソードだろう。ここで端的に表しているのは、本意はどうあれ、実行まではしてしまう人物、ということだろう。あるいは実行後のことには責任を持たない人物、とも言えるかもしれない。
毒リンゴを食べた人は死ぬ、その人を本当に殺そうと思っているかはともかく、毒リンゴを実際に用意してしまう人物なのだ。そして、この毒リンゴは原爆にも置き換えられる。原爆によって多数の死傷者が生じる。死傷者が生じるのを許容するかはともかく、原爆を実際に作ってしまうのだ。
原爆に比べれば些細なことだが、これは劇中で描かれた不倫、子供を預けるエピソードにも通じている。育て上げる意思、面倒を見切れるかどうかなど考えていない。ただ「できちゃった」ということだ。
原爆完成前のクリスマス、オッペンハイマーとニールス・ボーアが、国家ではなく国際体制下での管理の必要性に言及している。ここで表現されているのは、目先の目的以外、目に入らないほど視野狭窄なのではなく、先のことを考えないほど猪突猛進なのでもない、先のことを考えていないのでもなく、過小評価しているのでもない、ただその時になってみるまで、ことの重大さに気付けない、認識できない人物としてのオッペンハイマーなのだろう。
「Fusion」を通じて描かれる糾弾に対して、なぜ戦わないのかと、オッペンハイマーの妻は問うた。アインシュタインの問いかけに、オッペンハイマーは、アメリカを愛しているから、的な言葉を返した。
多数の死傷者にせよ、軍拡競争にせよ、それらは思いもしなかった副作用というわけではないのだ。副作用ではなく、連鎖反応の一部なのだ。知っていながら何もしなったのではなく、分かっていても、何もできることがなかった、というのが本当ではないだろうか。