安楽死カプセルSarco*1が期待通りに機能するものであれば、その利用者は、これまでは実行不可能だった行動戦略を採用できる。例えば、
- 人生でやりたいことを済ませたら自主退場する
- 生存、活動リソースがなくなるので自主退場する
- 終わりを決めて、それまでにリソースを使い切る
- そもそも人生を求めていないので自主退場する
などなど
そもそも高齢者はリスクをとるのが難しいものだが、それにしても資産を貯め込み、デフレ傾向を前提とした消費しかしないのも、結局、先行きが分からないことが原因だろう。先がわからないが、できることもないので、リソースの目減りを可能な限り食い止めるしかないのだ。
いつか終わりが来るとは言え、先の分からない心配を常在のものとして生き続けるなら、終わりを決めて、それまでにやり切って、消費し切って人生を自主退場するなら、それは健全なことだと思う。
そのようなことを考えていた時に思い出したのが、映画『神様メール』だった。
映画そのものはブラック・ユーモアに相当するもので、少々悪ノリの傾向はあるのだが、発想の面白さ、それにまつわるネタに楽しむ余地がある。
神様一家の家族関係は良好とは言い難く、特に娘との仲が悪い。神様は人間の余命を把握しており、個々人の余命をメールで一斉配信する。これが、つまり「神様メール」だ。この行為には、娘が神様を困らせる以上の意図はないのだが、人間の中には余命を知ったことにより行動、心情に変化をもたらす。
劇中で語られることはないのだが、この余命というのは、いわゆる天寿、寿命とは異なる設定のようだ。事故など、死に至るイベントと結びついたもので、ある意味では運命、その一部と言い換えられるもののようだ。
例えば、ある人物は他人の狙撃暗殺を実行し始める。狙撃が成功しようが、失敗しようが、それは被害者の余命(運命)として定められていた結果であり、狙撃者自身の責任ではないということだ。つまり、
被害者の神様メール | |
---|---|
成功 | 余命は当日 |
失敗 | 余命は他の日 |
余命があるとは、期日までは何をしても死なないということでもある。だから余命がある限り、高所からの飛び降りなどの危険行為を実行し続けたとしても、それが死因になることはない。そして、それを実行し続ける人物も現れる。
どちらもブラック・ユーモアならではの趣向だが、後者には考えを前向きに発展させることのできる余地がある。取り組みたいこと、成し遂げたいことはなく、ただ日常を平穏無事に過ごし続けたい人にとって、この余命は単なる残余時間に過ぎないのだが、そうではない人にとっては事実上の制限時間となるからだ。
そうなると、冒頭で触れた安楽死による行動戦略に近い状況が生まれる。自分自身の終わりを明確に定めることによって、「いつ終わるのか分からない」ことに対する備えは無用となり、行動戦略の選択肢も増え、取り組みたいこと、成し遂げたいことにより集中できる。
違うのは、期日の決められ方だ。『神様メール』は自身以外の存在によって定められ、冒頭の行動戦略は自分自身で決める。「神様メール」は事実上の運命に相当する一部なので、比較は無意味なのだが、それすら自分で決めることができることになる。
とはいえ、「神様メール」に書かれているのは、まさにその自分で決めた期日になるのだろうが。
余談
小説『自殺自由法』でも、似たような話題が取り上げられている。終わりを決めることのできる時代における世論調査の結果だ。
impsbl.hatenablog.jp
また、全くジャンルは異なるのだが、映画『デューン 砂の惑星 PART 2』では、自分に何が起こるのか、未来を知る者=死なないことを知っている者だからこそ獲得できる強さ描かれている。
その強さとは、傍から見れば、先に言及したブラック・ユーモアの後者に相当する「無茶」なのだが、当人にしてみれば「死なない」ことが分かっているのだから、何も無茶ではないのだ。
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