これは2006年に投稿したエントリーで、以前のブログから引き継いだものに加筆したものです。
フランス人と言うとスノッブで気取ったイメージ、特にそれが社会分析や哲学の分野だと、フランス文化賛美やハリウッドをはじめとするアメリカ批判で更に尊大なイメージが加わるかもしれない。とはいえ意外なところで言っていること、論旨は非常に的を射ていたりする。
例えば、ジュール・ベルヌ。ジュブナイルSF作家として有名な彼も、『二十世紀のパリ』では陰鬱なパリを予見、描写しているのは意外と知られていない。
さらに例えば、ボードリヤール。社会学者として抽象的な社会、文化分析を展開しながらも、『アメリカ―砂漠よ永遠に』では、アメリカと言う具体的な場所を採り上げて、自身のアメリカ論を展開している。
そして、今回のルネ・デュボス。細菌学者という視点から人間の生活環境と社会適応、そしてタイトルにある健康を語っている。
一見何も関係のなさそうな、この三者。しかし先の3冊にはユートピア幻想という、共通のテーマが横たわっている。
ベルヌは少年向けに明るい未来を描く一方で、都市化、産業化が人間にもたらすものを思考し、それがもたらすであろう人間性の否定と芸術の迫害を描いた。それが『二十世紀のパリ』。
ボードリヤールは、砂漠に実現したユートピアとしてのアメリカを分析し、文化も無く希望も無い国としてのアメリカを見出した。それが『アメリカ―砂漠よ永遠に』。
そしてルネ・デュボスの『健康という幻想』。医療の進歩がもたらすと言われる、無菌でストレスのない社会、病気から解放された社会、そんなユートピアは幻想であり、そのような思想は危険ですらあると論じている。
表現や言い回しに難しいところがある本だが、論旨は明快だ。人間が望む健康というのは、必ずしも活力にあふれた状態を指すのではなく、情緒的、知能的、倫理的発展のために一番適した状態であり、それは生物的必要性、有用性に相反する状態でもある、と言うことだ。そして、その論拠を示すために、
- 本来の健康と、科学(医学)を通して見たときの健康
- 生物的、社会的適応(共生と感染)
- 健康に対する認識の歴史を通じての変化
- 健康に対する認識の社会を通じての変化
- 人口と文明に対する病気の影響
を歴史的事実と生物学的根拠から論じている。
身体的な病気以外に精神病についても触れられている。このような描写がある。
田舎の環境では一員として十分やっていけた愚か者、余後を家庭の門口でぶらぶらして過ごすと思われていた半ばもうろくした老人、さらに庇護のいきとどいた家庭の雰囲気に逃げこんで生存競争を厭う臆病者は、近代生活の圧力の強い雑踏の中には安全な場所を見つけることができないため、いまでは、とかく精神病の施設の同居人になりやすい。
デュボスはこれを精神病患者の増加、精神の欠陥者として扱うのではなく、むしろ彼らを受け入れる能力を失った社会が病んでいるのだとし、個人の病気を社会の病気から区別することは困難であると述べている。
ちなみに、これは1977年の本。現代社会の現状を顧みると、非常にリアリティを感じさせる。
健康に対する認識を改めるためというよりも、世間一般で言われる健康というものは何が間違っていて、どんな問題を有しているのかを考察する上での、教養のための一冊。