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Technically Impossible

Lets look at the weak link in your statement. Anything "Technically Impossible" basically means we haven't figured out how yet.

こちらニッポン…(『小松左京全集完全版6』より)

小松左京全集完全版 (6)

小松左京の作品には、SF小説と言うよりも、SF的な状況を前提としたシミュレーションのような物語がある。そのコンテキストでは、『日本沈没』は日本国土の喪失、『首都消失』は首都機能を喪失した状況下での、日本人のふるまいを想定したシナリオとみなせるだろう。同様に『こちらニッポン…』を解釈するなら、日本各地に散らばった数十人を残し、他全ての日本人が消失した状況下でのシナリオ、ということになる。

この作品が発表されたのは1976~1977年であり、時代背景も、利用可能な技術も全く異なる時代が舞台でありながら、現在から見ても非常にリアルに感じるのは、本質を違えず捉えているからだろう。
さらには、この提示されたシナリオは、言うなれば少子化労働人口減少に加え、インフラの維持にすら危うい兆候が顕在化し始めた現在の状況の、極端なデフォルメ描写とも解釈できる。非常に緩慢ながらも、この作品が描写するような状況へ向かっている我々の状況が、デフォルメ描写のリアルさ、実感、解像度を増幅させるのだ。

そして、読者がそのような感覚にたどり着ければこそ、自明のネタバレともいうべき目次、その終章タイトルと内容にも、「そうとしか描写できないだろう」と納得がいくのだ。

人の喪失→社会の喪失

物語で起こっている異変とは、ただ人がいなくなることだ。
多数の人たちの分担、分業によって社会は運営され、また機能している。ある人がいなくなれば、その人が担っていた知識、技能も共に消失する。複数の人たちがいなくなれば、その人たちによって運営されていた事業活動も停止するし、それによって提供されていたサービスも失われる。さらに、その状態が継続すれば、いわゆるライフラインと呼ばれるインフラをはじめ、道路でさえも、運用、維持することができなくなる。
人がいなくなれば、ただ労働力が失われるだけではなく、それによって生成されていた成果物をも喪失することになる。

例えば、子供たちの間だけのコミュニケーションに限定しても、情報を日本中に伝達することができる。実際、インターネットが一般に利用されていない80年代、高橋名人が逮捕された*1、という噂はメディアを介さず、子供たちだけの情報ネットワークを通じて日本全国に伝わった。
ただ人がいるだけで機能する情報伝達も、人がいなくなれば機能しない。東京、名古屋、大阪で人々が生活していれば、そのどこかで発生した地震は、直ちに他所の知るところとなるだろう。もし名古屋が壊滅的なダメージを被ったことを知れば、東京、大阪間の移動は、事前に迂回ルートを取ることができる。
人がいなければ、このような情報も流通しないのだから、一方からもう一方へ移動しようと思えば、交通が遮断されていることは、その現場にたどり着いて初めて知ることになる。あらゆることは、現地を確認するまで分からないのだ。

そして、現代社会のインフラ、サービスは、このような分業+情報伝達を前提に成り立っている。例えば航空運営には、飛行機を操縦する人だけでなく、地上から航路、気象情報を提供し、航空管制する人も必要だ。人は様々な依存関係の結節点であり、人がいなくなった分だけ、インフラは機能せず、サービスも提供されない、情報も伝達できなければ、結局は社会が成り立たなくなり、ゆくゆくは文明も失われる。

「未完の終章」の納得感

映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー*2では、世界から切り離され、主人公たちを除いて人々が消失した友引町が舞台となる。町は廃墟化している一方、なぜかインフラも物流も機能している。
人々が消え去ったとはいえ、消失後、しばらくの間は、それと似たような状況が続く。インフラ、サービスは自動運転の範囲内で、燃料が続く限りは機能するのだ。都市には大量の食糧が残され、それらを消費しながら生き長らえることはできる。しかし、保存の問題がある。消費し切る前に、ほとんどは無駄になってしまう。

作中の登場人物たちは、自分たちの行動範囲だけでもインフラを機能させようと思い至る。資料を調べ、応用しながら自分たちで対応できたとしても、その正しさを照合、指導、担保してくれる存在はいない。
サバイバルと言って、誰もが容易に想像できるだろう道具やインフラ、サービスと同列に、教育システムや学術機関の必要性にまで、想像を広げられる人は少ないのではないか。この作品は、そこにまでも思いを馳せている。

登場人物たちは、自分たちで燃料を補充しながら、発電所を維持できないか、と考えるのだが、現実に対応できるのはホテルの発電機に燃料を補給することだけだ。仮にそれが解決できたとしても、個人が容易に想像できる範囲外の何かにまで想像が及べば、際限なく様々な領域での問題解決が続き、切りがないのだ。そして作者は確実に、この切りのなさを自覚していたのだろう。
そして、この切りのなさ、答えのなさは、冒頭で触れた、似たような状況へ緩慢に近づいている私たちにも符合する。

登場人物たちは、エレクトロニクス化、自動化、省力化され、燃料発電もできる環境での集住を選択する。これは現在の視点で見れば、コンパクト・シティに通じるアイデアであり、まったくSF的な結論ではなく、結局、建前として現実が志向していることと変わりがないのだ。
当時は、これでもSF的な結論として成立したのかもしれないが、これは物語上の結論であったとしても、オチではない。つまりSF的なオチを見出せず、全く別な要素を拠り所に、物語のオチとする他なかったのだろう。

そこまで考えると、そのような中途半端な結末でありながら、終章のタイトル「未完の終章」には大いに納得できるのだ。

余談

『こちらニッポン…』は70年代に出版された作品で、公立図書館に所蔵されている文庫本の状態は良くないかもしれない。近年発刊された『小松左京全集完全版』ならば、ハードカバーで状態も良いだろう。文庫版は上下巻に分冊されているが、全集ならば1冊にまとまっているのも都合が良い。

電子版での読書であれば、この投稿時点で『こちらニッポン…』はKindle Unlimited*3の無料配信対象になっている。不定期に実施される入会割引期間を活用すれば、お得で、読みやすい環境で読書できるだろう。