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Technically Impossible

Lets look at the weak link in your statement. Anything "Technically Impossible" basically means we haven't figured out how yet.

Joker: Folie à Deux/ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

映画 ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ ポスター Joker: Folie à Deux 2024 ジョーカー2

”ジョーカー2”こと、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の賛否両論は噂に聞いていた。面白いか、そうではないかと言う両論ではない。楽しめるか、そうではないか、とすれば確実に「楽しめない」映画だ。絵から音楽、それらに込められた含意まで、とても好印象を与えるようには作られてはおらず、むしろ意図的に演出されている。

何より、副題の「フォリ・ア・ドゥ」が誤解を誘う。これが「二人狂い」を意味するからと言って、ジョーカーとハーレイ・クインの狂騒がテーマなのではない。公式サイト*1に掲載されている解説が示すように、これは妄想が共有されることをテーマにした作品だ。

そして、その妄想とは、もちろんジョーカーという「概念」だ。この点において、リーはハーレイ・クインではない。リーに限らず、妄想を共有する人たちは、すべからくジョーカーとなり得るのだ。

リーはハーレイ・クイン的だが、ハーレイ・クインではない

オリジナルのハーレイ・クインは、アーカムアサイラムに努める精神科医だった。ジョーカーの担当医となったことをきっかけに、精神的にジョーカーに飲み込まれるのだ。そしてアーカムアサイラムからの脱走を手助けする。

レディ・ガガの演じるリーは、このような設定の一部を継承している。ハーレイ・クインを印象付ける登場人物ではあるのだが、ハーレイ・クインそのものではない。ジョーカーとしてのアーサーに惚れ込み、アーサーを煽るのはハーレイ・クイン的ではあるのだが、ジョーカーになりきれないアーサーに未練はなく、自らジョーカー化する。

物語終盤、リーの長髪が短髪に変化したのは、言うなれば失恋による気持ちの切り替えのような、古い自分を捨て、新しい自分へ進むことを象徴している。その向かう先はクラウン・メイクが明示しているように、ジョーカーなのだ。
ピストル自殺をほのめかす場面は、それが生易しい気持ちの切り替えではなく、ハーレイ・クイン的な古い自分を殺し、自らジョーカーと化す、精神的な自殺を象徴しているのだろう。

妄想としてのジョーカー→ジョーカー化

前作『JOKER』*2では、主人公アーサー=ジョーカーであり、ジョーカー誕生の逸話的に紹介されることがあったのだが、今作において、これは前提として成り立たない。アーサーだけでなく、リーがジョーカー化し、また物語の結末にて、若い囚人もジョーカー化したように、妄想を共有する者たちは、みなジョーカーへと変貌し得るのだ。これが副題の「フォリ・ア・ドゥ」に通じている。

さらに、ここでいう皆は、劇中人物たちだけでなく、観客をも含んでいる。前作『JOKER』は、いわゆる無敵の人の逆襲的に解釈できることから、格差社会、特に持たざる者、虐げられている者の反逆を肯定的に捉え、ジョーカーをその代弁者、カリスマ的な存在に祭り上げるような、ジョーカーに感化された観客のことだ。

アーサーは跡継ぎを残せなかったが、ミームを残した。

劇中、リーが嘘つきであるという情報が示される。そのため彼女が妊娠したと言う情報を、劇中の事実と鵜呑みにすることはできない。それはアーサーを煽るための噓であった可能性もあるからだ。

アーサーはジョーカーになりきれなかったとはいえ、一時、確実にジョーカーであった。特に妄想の中では、明らかにジョーカーとして振る舞っていた。そのジョーカーとしてのアーサーが、リーに語るのが、跡継ぎを残したかった、ということだ。

物語終盤、アーサー自身も同じことをリーへ伝える。リーの伝えた妊娠が事実なのかは分からないが、アーサーは跡継ぎを残すことはできなかった。しかしジョーカーと言う、ミームとしての跡継ぎを残すことができた。リー自身、若い囚人、さらには前作に感化された観客たちだ。

余談:そして火消し→That's entertainment

この作品が、とても好印象を与えるようには作られていないのには、前作からの反省が背景にありそうだ。

1作目で暴力を無責任に肯定した、という批判が上がったことに「混乱した」と明かす

暴力は責任を持って描かれていると思っていました。なぜなら、それは現実的に描かれているからです。『暴力とはこういうものだ』という感じで描かれているんです。そしてそのことは、フィルムメイカーとしての僕たちには無責任だとは思えませんでした

www.cinemacafe.net

感化され、妄想の共有を抑制するのではなく、感化されることに嫌悪、忌諱を印象付けるように演出されている。表現を抑制するのではなく、不安、不気味、不安定な心理、薄暗く、湿って、不潔そうな環境など、見ていて気分の良くなる状況は、妄想以外には登場しないのだ。

感化され得るものを一切排除した演出なのだろうと理解しているが、ここまで陰鬱、かつ「残酷」な描写は、前作の火消しのように感じた。

前作の締めくくりは「That's life」だった。それが今作では「That's entertainment」に変わった。
精神分析を専攻するリーの父親は医者であり、いわゆる富裕層だ。彼女がアーサーの心理をもてあそぶのは、つまり富裕層が持たざる者をいたぶる、虐げる楽しみに通じているようにも感じる。「That's entertainment」
同時に、これは観客に対するメッセージにも転じる。つまり「これは映画ですから」と言う観客に対するエクスキューズだ。