これは2007年に、旧ブログへ投稿したものです。加筆、修正の上、こちらへ移行しました。
映画『墨攻』の原作はコミック版だ。そして、コミック版『墨攻』の原作は小説だ。『墨攻』のオリジナルは小説なのだ。主題やテーマは同じでも、それぞれについてアレンジが施されており、筋書から展開まで、作品の趣は全く異なっている。
impsbl.hatenablog.jp
映画版から辿れば、小説版は原作の原作に相当する。映画化に伴う省略やアレンジよりも、伝言ゲーム的な成り行きから*1、全く別の話に仕上がってしまったのではないか、と邪推してしまうくらい、映画版と小説版は、その内容が異なっているのだ。
映画版と対比すれば、それぞれのストーリーがお互いのif展開に相当するような内容だ。あの局面でこのように対応していれば、展開はこうだったのかもしれない、そのような楽しみ方ができる。
結末だけでなく、主人公の人物像からして、異なっているのだ。
現在、文春文庫から出版されている『墨攻』だが、もとは新潮文庫から出版されていた。その表紙、挿絵を担当したのは、イラストレータの南伸坊だ。ゲーム『mother』のキャラクター・デザインを担当した人だと言えば、その外観の特徴を想像しやすいだろうか。
一方、映画版の主人公を、アンディ・ラウが演じている。まず外見からして違い過ぎるのだ。
どちらの主人公も、兼愛、非攻の志がありながら、防衛戦のプロとして戦争に関わらなければならない、という教義上の矛盾を抱えている。それは共通の属性でありながら、その性格は別人格と言ってもよいほどに、根本的に異なっている。
映画版 | 小説版 | |
戦術 | 相手の策、意図を利用する。 柔道、合気道的 |
相手の策、意図に逐次対応 積極的防衛 |
女性に対して | 教義上、女性には非常に奥手。 | 身内からの美人局を退ける 「やっぱり、抱けばよかった」と後悔 |
また、釈放された捕虜に対する対応も対極的だ。敵側の意図を警戒するのは、映画版、小説版ともに、敵側の意図を警戒しながらも、映画版では、まず食料を与えてねぎらいながら、敵側の情報を引き出そうとする。
一方、小説版では、敵に殺されなかったことを不満に思うのだ。その真意とは、敵に殺されたことによる、味方の戦意高揚を期待していたのだ。しかし、その期待は裏切られた。釈放された捕虜への処遇が、皆と変わらなければ、民兵は容易に投降してしまうかもしれない。組織の結束維持のため、釈放された捕虜は処刑されるのだった。
ここまで人物像が異なると、同じ戦場、同じ作品とはいえ、導かれる結末までもが対極的に異なるだろうことは、容易に想像できる。この結末、そこから導かれる主人公の心境の対比が、両作品に触れることで楽しめる、最も興味を引く、面白いポイントだ。
ゲームにたとえるならば、映画版は俗にいう「True End」、真のエンディングとでも呼べるような結末だ。後味は悪いが、納得感がある。一方、小説版は明らかにバッド・エンドなのだ。
映画版主人公は、教義を捨て、平和を説くため、孤児たちとともに城を離れる。一方、小説版の主人公は、自らの振舞いの誤りを悟る。
***(伏字)***はこの場合誤りだったのだ。何事も教科書どおりにはゆかぬ。
小説版の主人公は、映画版の様に感傷に浸ることはなく、ひたすらドライなのだ。
一つの原作から、異なるメディアへの展開に際し、このようなif展開アレンジを持ち込む事例というのは、いわゆるループものを除いて、見かけることがない。
一つのメディアに触れると、別のメディアでの展開はどうなのか、と興味を掻き立てられる、面白い趣向だと感じた。