これは2006年に投稿したエントリーで、以前のブログから引き継いだものです。
大学一回生のとき、心理学の講座で観た映画。心理学の時間に教材とされたと言うことは、そこにはそれなりの理由、心理学の時間で取り上げるなりの目的があるわけですが、映画自体は法廷密室劇。12人の陪審員による、ある殺人事件の判決についての議論の顛末を収めたもので、その議論の発端からその推移や、各陪審員の立場や背景、もしくは決断に至る過程など、心理学以外の側面からの観点や考えさせられることが多分に含まれている、非常に面白くて為になる映画です。
この映画を観てまず思いつくだろう、考えさせられるだろうことは、
- その他大勢が一つの意見にまとまっている中、異議を唱える勇気。
- 圧倒的に不利な状況においても、逆転を試みる粘り強さ。
もしくは、重要な決断において
- 偏見
- 勝手な思い込み
- 差別
- 歪曲
を孕む情報を除外することの重要性。更には、ビジネスマンの方ならば、
- リーダー・シップ
- 理詰めのコミュニケーション
- 根拠無く、他人の意見に同調する日和見主義
などにも思いを馳せるかもしれません。私自身も学生時代に鑑賞したときにはそんなことを感じたり考えたりしました。しかしながら、あれから10年以上経って鑑賞すると、先のビジネスマンの例では無いですが、新たな視点からの思いや考えも湧いてきます。そして、それは劇中外のことだったりします。
12人の陪審員は、父親殺しの殺人事件について、被告人であるその息子の判決を考えます。曖昧ながらも状況証拠と物的証拠が示され、息子の有罪は濃厚です。そして、12人全員が有罪と判断したならば、その息子は死刑。
しかしながら、12人中11人が有罪と判断していますが、一人だけその証拠の曖昧さゆえに異議を唱えます。
これがそもそもの始まりで、議論の過程を通じてその証拠の曖昧さや、各陪審員の偏見だったり認識だったりが露にされながら、形勢が逆転していくわけですが...
あれから10年経った、今の私の立場からすると、物語の進行に対する感覚に変化は無いとしても、どうしても拭えない違和感を感じるのです。それはどういうことなのかというと、
何ゆえ彼らに証拠の曖昧さを議論、検証する余地があるのか?
ということ。つまり、そういう曖昧さの議論や検証は、陪審員ではなく、本来、検事と弁護士の間で争われるべきあり、裁判の場で明確にされるべきではないのか?ということ。実はこの議論は、劇中でも一部なされていて、弁護士が国選なのでやる気が無かったのかもしれない、などと言われています。
しかしながら、更に一歩進めて考えると、
- 警察はそんな曖昧な証拠しか見つけられないまま裁判に持ち込んだのか?
- 裁判所はそんな杜撰捜査な事件でも、刑事裁判を受け付けるのか?
と言う考えにまで及んでいくのですが、なんでこのように考えるに至ったのかといえば、ITプロジェクトの進み方と似ていることに気づいたからです。
1.そもそもの発端が杜撰、適当、もしくは単なる思い付きだったとか。
2.プロジェクト化に関するレヴューも適当、かつ杜撰だった。
そしてプロジェクト化...
3.なぜか現場で大切なことが話し合われている...
ということ。3で話し合われるべきことは、本来1や2で議論し、明確にしておくべきことではないの?ということが観ている間中、ずっと頭と駆け巡るのです、そして、結局最後に苦労するのは現場なんだよなぁ、特にその中でも「気付いてしまった」人が、と言うことに思い至るのでした。
観る人の立場によって、色々なことを感じる、考る、そして見出せる作品で、なおかつ面白いという、非常に優れた映画であると再認識した次第です。
そして、忙しいビジネスマンの人たちには更に嬉しいことに、上映時間は90分です。いつものドラマの代わりに鑑賞することもできる、お勧めの一本です。
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